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大切な我が子を守るためにできること

#能登半島地震 石川県七尾市中島町で被災した生後5ヶ月の息子の母です。全国のママの参考になればと思いまとめます。
下の方に【被災時の様子】をまとめています。

【はじめに】

震災を経験して母として思ったこと
息子の母は私しかいないこと
・家族揃って過ごせることはしあわせなこと
・命あるだけでありがたいということ 
・防災バッグ持ち出せませんでした。
 マザーズバッグで精一杯でした。

【この記事を書いた理由】

震災直後、助けに行くよ!とお子様がいるお母様から何件か連絡がありました。しかし、被災者となった私が思ったことは、今は正直能登にくるのは危ない。気持ちはありがたいけど、まずは目の前にいる、あなたのお子さんを守ることを考えてほしい。誰かを助けようする前に、お子さんにとってママはあなたしかいない!あなたが危ないところに行って、子どもはどうする!そう思ったので、体験談と備えてほしいものを書き記しました。

【現況】

家族は全員無事。1日夜は避難所で自家用車で過ごす。2日朝避難所で過ごした後義実家に避難。3日朝息子と私だけ金沢に避難。夫と義両親は能登で牡蠣を出荷しています。金沢は能登と別世界、普通に暮らせる。1/8自宅「危険」判定を受ける。週に1回は能登にいる家族が金沢に来る。それが今の私の1番の楽しみ。

【被災前の暮らし】

夫と息子(5ヶ月)と私の3人暮らし。夫の家業が牡蠣養殖業(山口水産)で、夫義両親が働くお店が家から車で1分かからない距離にある。義実家も家から車で3分ほど。普段から夫はもちろん義両親の全面協力を得て育児をしていた。

【被災時】

自宅で夫・息子と過ごしている時に地震。
車で高台にある小学校に逃げました。
詳細は下の方に。

【赤ちゃんのために備えること】

◼️できれば母乳育児
 →ミルクが作れない状況でも安心できる
◼️母乳育児の人でもミルクを飲ませる経験を
 →ストレスで母乳が出なくなる場合も。
 →私は本能なのか震災直後、母乳が溢れた。
◼️車の中にも赤ちゃんグッズを常に置いておく
 →オムツ、おしり拭き、
  タオル、ブランケットはマスト
  液体ミルク、オモチャがあると尚良し
  車中泊なら赤ちゃん布団があれば…
  (カローラクロスの後部座席に
   赤ちゃん布団シンデレラフィットした)
 →普段から義母の車の中にも
  息子のオムツセットを置かせていただいて
  いたのも避難中に安心材料となった。

《マザーズバッグに入れておくべきもの》
※5ヶ月の息子の場合です。もう少し大きければ離乳食やお菓子が必要だったかも。
◼️オムツ
◼️おしり拭き
 →お風呂に入れない時、体を拭くのにも活躍
◼️タオル
 →防寒にもなる
◼️お湯
◼️哺乳瓶
◼️固形ミルク
◼️液体ミルク2、3本
◼️哺乳瓶インナーバック
    →哺乳瓶が洗えなくても衛生的
◼️防寒着
◼️着替え
◼️常備薬(塗り薬も含めて)
→3日間お風呂に入れず、保湿の薬もなくて、
  肌荒れしてしまいました。
  保湿の薬を塗ったら治りました!
◼️母子手帳
◼️現金
◼️おもちゃ

《自分のために常備することにしたもの》
◼️食料
 →お菓子でもいいから、少しでも食べれるものを持っておけば、母乳の心配はなかった
◼️コンタクトレンズorメガネ
 →目が悪い人は必ず常備してください!
  私は避難した時に無くて、
  生活できなくなるかと思いました…
◼️歯ブラシ
◼️生理用品
 →お風呂に入れず、服もない状態。
  ナプキンがあれば、下着変えれなくても
  少しはマシだったかも…
◼️車に充電コード、毛布

【番外編】

◼️外でトイレをしました
 →ちょっと非難を受けるかもしれないが、もともと仕事柄(妊娠前まで木こりでした)山でしていたので、抵抗なく物陰に隠れてできた。

【被災時の様子】

夫、息子と3人でリビングにいた。早めの夜ご飯の最中、1度目の緊急地震速報で外に飛び出す。それほど揺れず、家に戻る。再び緊急地震速報。私は即座にマザーズバックと飲み物を抱え、夫は息子を抱え外に出る。外に飛び出してから揺れがどんどん強くなり、立っていられないレベルに。目の前の道路が波打つように揺れる中、夫が抱える息子を落とすもんかと屈んで支える。隣の家が倒れてきたが、我が家の小屋がストッパーとなり事なきを得る。すると後方からも家が崩れる音。家が全壊するのを二軒も目の当たりにし、絶望でしかなかった。一旦家の近くにあるガソリンスタンドに逃げ込む。次に頭に浮かんだのは「津波」。家の前に停めてあった車は、側溝の泥が跳ねてドロドロになっていた。この車も一歩間違えばペシャンコになっていた。後々見ると車が停めてあったところのコンクリがボッコボコに割れていた。危なかった。夫が車を取りに行き、息子を急いで車に載せ、海から離れた高台にある小学校へ向かう。なぜか数100m離れたところまで逃げると、家の前に集まる人集り。「津波」を想定していなかったのであろうか、私たちとまるで様子が違うかった。おそらく同じ地域内でも揺れが違うかったのか、全壊した建物はさほどなかった。兎にも角にも早く逃げよう!と声をかけながら逃げた。ただよく知る製材所から煙が上がっているのも見えた。それも大変ショックだった。でもとにかく逃げるしかない。途中義実家に立ち寄り、靴を借りる。そう、靴が脱げたまま私は逃げていた。とにかく無我夢中で車を走らせ高台にある小学校に逃げた。続々と車が小学校に集まった。何度も何度も緊急地震速報がなり、大津波警報が発表されているのをiPhoneやカーナビを見ながら過ごした。車の後部座席で息子と寝転がって、授乳しながら車で一夜を過ごした。SNSやTVから流れてくる映像は、信じたくもない大好きな能登の変わり果てた姿。ショックを受けた。しかし、息子はいつもと変わらない時間に寝ぐずりし、いつも通りにおっぱいを欲しがり、いつも通りに寝ていた。息子が心の支えだった。ありがとう。

【さいごに】

倒れて来た家の下敷きになっていたら、どうなっていただろう。車で逃げれなかったらどうなっていただろう。考えれば考えるほど怖い。そして、愛する能登の風景が変わってしまって辛いです。けれど命がある。命ある限り、できることをひとつずつ、前を向いて頑張っていきます。

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