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#4 兼業生活「どうしたら、自分のままでいられるか」〜辻山良雄さんのお話(2)

情報だけを得るものの見方には、限界がある

室谷 あまり人の影響を受けずに来たとおっしゃってましたね。子どもの頃は、どんな性格でしたか。

辻山 そんなに快活な感じではない。どちらかというとおっとりした、おとなしい子でした。

室谷 兄弟はいますか。

辻山 うちは兄がいます。兄は子どもの頃から活発。体育会系気質で、今は大手商社で働いています。

室谷 へえー。全然違う。

辻山 面白いですよね。男兄弟ってそんなに干渉し合わないというか、もちろん仲のいい兄弟もいるでしょうけど、うちは違いがあるまま育って別々の道を進んでいます。ただ、それが血を分けたということかもしれないけど、いてくれればいいというか。何も言わなくても、会えば通じ合うようなところはあって。

室谷 同じご家庭で育っても全然違う。やっぱり家庭環境というより本人の資質が大きいのかな。その中で辻山さんのたどった道を拝見すると、学生時代にいろんなアルバイトを経験したことも大きかったですね。そこで自分に合う仕事、合わない仕事を見つけたわけですから。

辻山 その辺はお金じゃないと思うんですよね。働くというのは、ある一定の時間をその場所で過ごすということなので、その居心地が自分に合うかどうかは重要です。よく例え話でいうのは、嫌いな服をずっと着ていると気持ち悪いじゃないですか。それと一緒だと思うんです。好きな色の服を着ているから気持ちが安定するし、そこを土台にして何かできるかもしれない。だけど本来の自分じゃないものを着させられているという感覚があるとしたら、やっていくうちにどこかでズレが生じる。

室谷 自分にとって快か、不快かの感覚がもっと大事にされるべきですよね。周囲は「もっとこういう仕事がいいんじゃないか」とか、いろいろ言ってくるじゃないですか。それに対しては、さっき辻山さんがおっしゃったように、あえて「聞かない」姿勢も必要かなと。

辻山 周囲はいろいろ言ってくるし、SNSで楽しそうなのを見ちゃうし。
(少し考えて)今、若い人に「自分の感覚と矛盾しない場所を選べ」と言っても、わからないのかもしれないなあ。そういうふうに言われた経験があまりにも少なくて。例えば、親から「いい会社に入りなさい」と言われ続けていたら、そういう言葉の中に自分がいることになる。そもそも「本来の自分とは何か」を考えることすら、誰かに言われてやっと気がつくとか……。

室谷 保育園で子どもたちを見ていると、ずっと土を触ってる子もいれば、ひたすら走ってる子もいれば、おままごとしている子もいる。そういうそれぞれの子の予兆のような、なんかわからないけどもって生まれたものがあるなあと思うんです。それをずっと大事にするとか、または人生のどこかで出会い直せればいいのだけど、時代の中でそういう感覚が弱くなっているように感じます。

辻山 そうですね。自分が持って生まれた本質がいつの間にかどこかにいってしまって、大勢が「こうなるといい」というものに向かってしまっているような。最近の若い人はコミュニケーションが上手な人が多くて、真面目ですばらしいと思うけど、でも本当はコミュニケーション取りたくない人だっているかもしれない。それなら別に取らなくていいと思うんですけど、人から遅れちゃうとか、いじめられちゃうとか、いろいろあるんでしょうか。心と別の方向にいくというのは、どうなんだろうかと思ってしまいますが。

室谷 これだけ情報が多い時代、人の意見に振り回されないようにするには、何かしら練習が必要かもしれません。本を読むのは、いい練習になりませんか。

辻山 ええ。本を読むのは、「向き合う」ことですからね。SNSをはじめインターネットは、どこか脳だけで対応していて、表面上で終わってしまう。身体がないというか、ふわふわしているところがある。本はこういう状態(本を両手に持っている仕草)でページをめくったり、寝っ転がったりしながら、体全体で読む。そういう身体感覚が薄まっていくと、煮詰まった時に怖いなと思います。この前、写真家のキッチンミノルさんがこんなことを話していました。

室谷 「本屋の時間」のエッセイに出てきた、本をすごい勢いで買う方。

辻山 ハハハ、そうです。彼が言うには、最近は人々が写真を見る時間が本当に短くなった。パッと見て「パンですね」「美味しそう」で終わり。時間をかけてじっくり見ていくと、肌理の感じとか色味とか、わかることがたくさんあるんですが、情報だけを取ってすぐに次へ、次へといっちゃう。そういう鑑賞方法が、写真であれ絵であれ、いろんなところで起きている、と。

本も同じで、文体の工夫といった一番面白いところを味わわずに、情報だけを追いかける読み方が増えていますね。何かにズボッと入り込むことに、耐えられないのかもしれません。だけどこういうものの見方というのは、どこかで限界が来るのではないでしょうか。

仕事に例えると、一生のうちで働く期間は、40年くらいあります。そうすると「これ、パンですね」という理解だけでは追いつかないところが必ず出てきます。人に仕事を教えるときも、エクセルをどうやって入力するかは教えられるかもしれないけど、じゃあそれを使って何をするかは、その人が持っている情報以外の感性から出てくることです。

それは結局、個人の資質でしかない。さっきの保育園の話のような、子どもの頃から走るのが好きだった人は、そこから仕事に何かを重ねていくかもしれない。仕事の方法はインターネットで調べられるけど、「私がこれから何をするのか」は、その人が見てきたもの、読んできたもの、行った場所などからしか生まれません。いざ、「これから何をするのか」という問題に直面したとき、「何もありませんでした」というのでは、年をとってからの輝きがなくなってしまうんじゃないかなあ。

つづき→「気になる、お金の話

※写真はすべて友人である写真家の中村紋子さん@ayaconakamura_photostudioによるものです


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