見出し画像

#18兼業生活「<人間くさい>商売から見えること」~小川さやかさんのお話(4)

私たちにも、ウジャンジャの素質がある

室谷 小川先生のお話を伺いながら、いまの社会の閉塞感って、私たち1人1人の思い込みによるものも大きいのではないかという気がしてきました。違う発想のスイッチを押すだけで、ずいぶん楽になるのかもしれません。

小川 そうだと思いますよ。いまの日本とタンザニアは全く異なる社会ですが、近代化する前の日本は、意外とマチンガたちのように「ウソもだましも織り込んだ社会」だったのではないかと想像します。

私は以前、民俗学者・柳田国男の『不幸なる芸術』を題材に論文を書きました(「タンザニア都市零細商人の瀬戸際の狡知 : ウソと時間をめぐる一考察」2012)。『不幸なる芸術』には、昔の日本の農村にいた「ヲコ」といわれる人たちが出てきます。ヲコは「バカバカしい、愚か」という意味で、派生語の「おこがましい」という言葉がいまも残っています。ヲコたちは、ウソやでたらめを言って人を笑わせ、その生き方は芸術の域に達していたと書かれている。

きっと当時は、ちょうどいい頃合いのウソがあったのでしょう。それが、明治以降の近代化を通して、主語(私たち)が自分の述語(行動)を管理・統制する世界観に変わっていって、「状況に合わせたウソ」が、いつの間にか「偽り、いけないこと」という意味に一元化してしまいました。

日本語って本来、述語に応じて主語をどんどん変えられる言葉です。例えば、「私はあなたのことが好きなような気がする」「と、昨日思ったんだけど」「やっぱり違うかな」というふうに、相手の顔を見ながら「あなたのことを好きという私」「という冗談をいう私」「というときのあなたの反応を心配する私」が次々に出てくる。だからもともと、英語のように主語・述語・目的語に基づく「一貫した私」という世界観で、社会をつくっていないように思います。そういうところは、タンザニアの人たちと似ているかもしれませんね。

室谷 日本の社会にも、もうちょっとウジャンジャ(狡知)が必要ですね。私は鈍臭いほうなので、「狡賢くなれ」といわれても「むり、むり!」と思ってしまいますが、小川先生の『都市を生きぬくための狡知』を読んで、ウジャンジャとは自分の癖を磨き上げて、物事が円滑に回るようにすることなんだな、と。それならできそうだと思いました。

小川 そうなんですよ。すばしっこくて抜け目のない人だけじゃなくて、いろんなタイプのウジャンジャがある。ふだん無口で頑固な人にニコッと笑って頼まれたら、「意外とお茶目なのかな」と思って、つい乗せられて動いてしまいませんか。のんびりした人が急にせかせかとし始めると、危なっかしくて助けたくなるとか。きっと誰しも人生経験の中で、「自分のこういうところが意外と人のハートをとらえるんだな」と感じたことがあるでしょう。マチンガたちはそれを磨き上げて技化し、コミュニケーションの土台にしているだけなのです。
 
外見がどうだろうが、キャラが個性的であろうがなかろうが、ウジャンジャのカッコよさとは関係ない。そうした身体的・性格的な基盤は誰かとの関係のなかでいかに発揮するかで、カッコよくも悪くもなる。モデルみたいな「かっこいい」の基準がないからか、マチンガたちと一緒にいると、誰もが人間くさくて愛しく感じます。
 
タンザニアではそういうことを、ストリートの教育で学びます。周囲の人々が日常的に「お前はそういうところがとってもウジャンジャだ」という感じで褒めるから、「あ、これが私のウジャンジャか」と気づく。いろんな経験を積む過程で、それがだんだん技化されていく。どんな人でも1日何回かは言われるほど、ウジャンジャは頻繁に出てくる言葉なんですよ。そうやって自分のささやかな言動に対して小さい承認がたくさんある社会っていいですよね。

室谷 価値観の異なる社会から気づかされることが、とても多いです。

小川 働き方についてお話すると、便利になったことで休めなくなることもあると思っています。2000年代前半のタンザニアには、大都市にインターネットカフェが数軒。だから大学に連絡しなくても調査中は行方不明で許されたのです。長屋街ではそもそも電気が通ってないから、暗くて仕事ができない。仕方がないから、目の前にいる人たちとの会話を楽しみ、田舎を歩き回る。そうやって「ちょっと不便である」ことで休めた。でもいまはスマホが普及して、どこでも仕事ができることが了解されてしまい、そのせいで事務仕事も論文指導もタンザニアまで追いかけてくる。
 
新型コロナウイルスの流行で業務のオンライン化が進んだとき、私はワーケーションに出かけました。平日に近場のホテルに泊まって、時間になったら授業や会議に出る。ところが、だんだんその状況に慣れてしまって、ふつうの旅行でも隙あらば仕事できるんじゃないかと、事務書類や書きかけの論文、パソコンを持って行くようになって……。私は一体、休むのが上手になったのか、下手になったのか?と疑問がわきました。
 
これは結構、深刻な問題だと思っています。日本の社会はどんどん加速し、「スキマ時間に効率的に何かをしよう」とか「上手に自分の仕事をマネジメントしよう」という意識から、逃れられません。この状況で人間的なやりとりを取り戻そうとか、自分を考える時間を持とうとするのはとても難しい。
 
ですからいまうまく回っているシステムに、バグみたいなものをどんどん挟み込むことが必要じゃないかと思います。大問題にならないよう気を付ける必要はあるけれど、時々、インフラが止まってしまうとか。履歴書を取らないで、どこの誰だか知らない人を雇用してみるとか。システムに頼らず、「この人は大丈夫かな?」と目の前の人に集中し、思いを馳せる時間があってもいいんじゃないか。スムーズに使えていたものが急にうまくいかなくなると、きっと野生の知恵が戻ってきますよ。

室谷 最後に、小川先生ご自身がタンザニアの方々との交流で変わった点はありますか。

小川 私はもともとおおらかなほうですが、変わったとしたら、窮地に陥ったときの対応でしょうか。以前は、なんでも自分でやりくりして乗り切りたいタイプでした。でもタンザニアでは人々がしょっちゅう「いま、ピンチだからさ」と言うのに影響を受け、私もタンザニアだと「ちょっとこれは無理かな」と他者を頼れるようになった。そうすると意外と、多くの人たちは「わかった」と言ってくれたりもします。日本ではなかなか実践できないけれども。

取材後記

小川先生のお話を伺いながら、私がマチンガの商売にワクワクするのは、やっぱり自営業の家で育った影響が大きいのかなと思いました。心のどこかで、組織化されたものよりも、自分の技術や勘を磨いて生きることへの憧れや自負があるのかも……と。もちろん、組織化しないと成し遂げられない仕事はたくさんあり、そういうものだってなくてはならないものですが。日本社会の隅々にまでシステムや管理が及ぼうとしているいま、組織をちょっと緩めて、お互いの変化や揺らぎを認めながら人間臭い関わり合いを取り戻していくことは、すごく大きいテーマだなと感じました。

そして、「人間貯金」をコツコツ貯めること、自分なりの「ウジャンジャ」を手に入れることを、当面の生き方のテーマにしたいです。大変お忙しい中でお時間をつくってくださった小川先生、本当にありがとうございました。

(この回はこれで終わりです)

※写真はすべて友人である写真家の中村紋子さん@ayaconakamura_photostudio によるものです

この記事が参加している募集

お金について考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?