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アレクシェービチと横顔と「100分で名著:~戦争は女の顔をしていない~」

さて、今回はこれを読書記録とするのはどうかとかなり迷ったが取り上げることにする。NHK100分で名著による「戦争は女の顔をしていない」テキストである。

著者スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチについてはその著作より先に2020年のベラルーシの大統領選挙の混乱やそのデモ活動を伝えるニュースのなかで知った。コロナ禍という未曽有の事態を迎えてなお独裁国家は存在しまだ争いがあるのかという不勉強ゆえの戸惑いの中で、同活動を牽引するのがまだ年若い女性であることと精神的指導者にある著者の存在も知った。代表作である本作は著者の出身地やその活動とも相まって2022年のウクライナ侵攻が始まった際にメディアで度々取り上げられ、特に日本ではコミックス化もされていることも知り是非読まねばと思っていたが、そのテーマの重さにひるみ先送りにしていた。が、そんなヘタレの私にもこうして極めてライトな形で著者の声は届けられた。ありがたいことだ。

本書はテキストというにふさわしく要所要所で講師沼野恭子教授の丁寧な指導や解説の差し入れられ、多岐に渡る情報補足がされるなか、さながら大学授業のように読み解きを進められていく。その内容は、一頁一頁にごとに新しい学びと驚きと気づきがあり極めて凝縮された重厚さをもつ。沼野教授の選と推量される同作の抜粋箇所は当然ながら作品のわずか一部を切り取ったものでしかないことは明白であるがそのおかげをもって読み手の深部に届く。少なくとも私自身はあのごく薄いテキストから発せられるそのメッセージの重さに耐えかねて、幾度目を閉じて大きく息をついたことだろう。ただ過ぎ行く日常、戦時下という日常で看過できない感情の渦のタペストリーはその切っ先のわずかでさえ力を放つ。

2022年という現代では男女というジェンダーの扱いに一定の繊細さと厳粛さつまり慎重さが求められるので「女の顔」とするそのタイトルには意見ある人もいるかもしれない。しかし現時点において社会構造や権力たる論議に性別を付けるとすればすべての名詞に性別振り分けのある言語が存することも踏まえ、そのささやかな声や感情を定義するには異議ないかと思う。事実、我々は天下国家はじめ社会構造などの是非を語るとき常に大きく高い視座に立つことを求められる。そうした視点をもつ訓練をされてきたといっても過言ではない。作中、心を揺さぶられるのは、そうした教育を受け個々に高い志によって賢明さをその努力によって身に着けた人々が、最終的には報われることなく失意のなかひっそりと膝を折ることになっていくという現実がさらされるところだ。

一方でこの現実や実態を受け止めてなおアレクシェービチがこれを文学的作品であるとして明確に位置づけ、同時に現在においてなお依然戦いの前線に立って政治活動の精神的指導にたっていることは驚嘆に値する。多大な哀しみに裏打ちされた絶望に触れると往々にして人は、その恐怖と生存本能故、思考を停止しがちである。少なくとも私はそうだ。怒りと共に立ち上げるとはよく耳にしてきた行動則であったが、実際はまず生き延びることだけを考えるように思うがどうだろうか。痛ましい映像がテレビに投影されただけのこの事態に精神を滅入らせ、自分の現在の日常に支障をもたらすことを恐れて気を配っているような私こそが「団結しないと殲滅される」というアレクシェービチの声は受けとけるべきなのにだ。恐怖はまだ味わい尽くす前から人の心を蝕む。単に怒りを呼び覚ますだけではない。大多数において、現実から目を背けるという思考停止行動をもらたす。この件は現在読み進めている「危険人物をリーダーに選ばないためにできること――ナルシストとソシオパスの見分け方 」でも触れたい。

倍速で映画を観る層が一定いるということで世の中物議を醸している昨今。今回のテキスト記録もそれにあたるなと一定のそしりをうけることも踏まえかなりビクビクしての記録になるが、本作に触れる機会を得たことをありがたいと今回はただそれだけを小さな声ではあるが謙虚な気持ちで申し上げたい。ちなみに放映されたその番組自体の方は見逃しているので機会をみて観たいと思う。

今日は台風、ゲリラ豪雨で全くひどい降りようである。異常気象だね温暖化の影響だねと訳知り顔でいっていた15年前くらい前の日常をふと思い出す。最早それはイマココとなってしまった。現在進行形の危険な状態こそが今の子供たちの日常。グレタさんが登場するのも当然だなとまた他人事めいたヘタレな自らを許すの範囲もそろそろ決める時がくるだろうかとただ今日はひとりごちる。

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