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”正しい”ことは私たちにとって制約なのか、それとも生活や仕事、選択の質を高めるのか

先週の、G7/アースデイ市民オープンフォーラムというイベントに参加して、すっかり環境の分野への関心が高まっています。

文系の自分にとって、環境分野という理系で対自然の分野はなかなか関われていなかったのですが(自分の所属する課に環境プラザがあっても、SDGsのさまざまな取り組みで環境のみなさんとご一緒することがあってもです)、オープンフォーラムで、環境分野をジェンダーや社会の視点で見つめ直すことができたこと、環境分野の中にもさまざまな人やセクター、地域での対立があり、コミュニケーションが必要なことを知り、めちゃくちゃ面白いし、ジェンダーや人権の問題と同じと改めて思ったのです。

その議論の中で、興味深い問題がありました。

環境でもジェンダーでも同じなのですが、”正しい”ということは私たちにとって制約なのか、選択肢を広げるのか狭めるのか、という問題です。

環境分野で、こんな国民意識調査があるそうです。

「気候変動対策は概ね生活の質を向上させる機会である」との考え方に賛同した人は日本(17%)に対し、フランス(81%)、イタリア(81%)、デンマーク(79%)、インド(75%)、カナダ(73%)、アメリカ(67%)、 中国(65%)であった。

※World Wide Views on Climate and Energy による調査(76 か国対象、2015 年)

確かに私自身も、会議でペットボトルの飲み物を出していたら怒られそう、とか、寒い中暖房をガンガン点けてアイスを食べる生活はできないんだ、という「我慢」とか「したいことができなくなる」というイメージを持っていました。

では、人権やジェンダーは?

「職場での軽いジョークもセクハラと言われて、今まで冗談で言えたことも言えなくなってしまう」「お笑いや広告での表現の自由が制限されてしまう」「文化が貧しくなる」とよく言われますが、その場合は徹底的に反論します。

「あなたは笑っていたかもしれませんが、私たちは全く笑えていなかったですよ」「誰かを傷つけなきゃコミュニケーション取れないなら、黙っててください」「誰かを犠牲にする文化なら捨ててしまっていいのでは?」とか。

環境も人権、ジェンダーも、”正しいこと”は、ある人にとっては制約であり、面倒くさいものであり、「kill joy(喜びを殺す人、つまり水を差す人)」だということを強く感じています。

ここからは希望の話です。

漫画家のよしながふみさんは「ポリティカルコレクトネスは物語の面白さに資するものとして大事だと思います」とインタビューでおっしゃっていました。

・・・

——現代は、配慮を過度に求められるとして「表現が難しい」とも言われています。

よしなが:私は、逆に描ける内容の幅もすごく広くなったようにも思っています。BLだって、セックスありきの恋物語ではなく、ゆっくり時間をかけて愛を育む物語を描けるようになってきたと思いますし、理屈っぽい女の子が魅力的に描かれている漫画も人気。恋愛を描かない物語もすごく増えました。でも、読者としては恋愛ものも大好きです。

昨今、映画や演劇におけるセクハラが問題になっており、2017年頃に世界中で起きた#metoo運動もそうですが、日本でも実力のある俳優や監督たちの暴力が明らかになっています。

そういったなかで、性的なシーンを撮る際に、俳優を守ることを目的にインティマシーコーディネーターという人が入るケースが日本でも増えてきています。

俳優の鈴木亮平さんは、「俳優を守ることはもちろんだけれど、それ以上にシーンのクオリティが上がる」とおっしゃっています。

・・・

俳優を守ることはもちろんですが、それ以上にシーンのクオリティがぐっと上がると思います。コーディネーターは俳優の要望を聞くだけでなく、演出側が言いにくいことをきちんと俳優に伝えたりもしてくださるんですね。誰かが一人、間に入ってくれるだけで、互いの意思伝達がスムーズになり、それぞれがやりたいことやりたくないことがきちんと伝わる。俳優同士もお互いに相手にやって欲しくないことをきちんと確認した上で撮影に入ることができます。例えば細かいところで言うならば、キスシーンでも前もってお互いの同意がとれているので「このシーンでは舌を入れてください」というように、どこまで愛情表現をしていいのか、するべきなのかというラインが決められる。そのラインを事前に共有しておくことで、俳優同士もリラックスして、より気持ちの込もった、より自然な演技ができるようになるなと感じました。

よしながさん、鈴木さんのコメントから、今までの価値観でいると制約と思われるような「漫画の表現におけるポリコレ配慮」、「映画撮影における俳優を守るためのコーディネーター登用」というのは実は作品の質や面白さを高める、ということをおっしゃっているのです。

制約、水を差す存在が、どうすれば私たちの社会の質を高めるものに変えていけるのか。もしくは、どうすればそれに気づけるか、というのを考えていきたいと思います。

先日の新聞で、「スウェーデン、国民の7割が30年冬季五輪支持」という記事を読みました。

皆さんもご存知の通り、札幌市が開催を目指してきましたが、東京五輪の汚職・談合の影響や、エネルギー不足や物価高の中での財政的な問題などで、札幌開催は「困難な情勢」となっています。

一方で、スウェーデンは、「民主的で費用対効果が高く財政的に持続可能な五輪ができるのなら、招致を支持する」という国民は7割ということです。

スウェーデンの政治状況など詳しくなく記事の情報だけですし、なんでも北欧を称賛するのも違うとも思うのですが、こういう選択肢を選べるスウェーデンはいいな、と思ったのです(あんまりスポーツ見ないので興味がある方ではないのですが)。私だって「民主的で費用対効果が高く財政的に持続可能な五輪ができるのなら、招致を支持する」と言いたいなと思いました。残念ながら、そんなことを言う選択肢は自分は持っていないように感じています。

きちんと民主主義を信頼できるような努力を自分たちはしてきただろうか。スウェーデンのように、福祉や環境保全のために高い税金の負担を強いられてきたからこそ、制約があるからこそ、「オリンピック招致を支持する」という選択肢が広がったという部分があるのではないか、と想像したのです。

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