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寝ているものは好感度が高いでおなじみ、『晴れた日は巨大仏を見に』

2020/01/12
去年の冬からだらだらと読んだり寝かせておいたりしていた本を読み終えた。

『晴れた日は巨大仏を見に』(宮田珠己/白水社)

巨大なものが怖いねという話に、あるとき集まった人たちで盛り上がったのだ。
ある人は大仏が怖いという。
わたしは巨大な空間に居ることがたまらなく怖い。たとえば、鍾乳洞。水族館の大きな水槽のある広い空間。美術館にあった巨大ウルトラマンの上半身。背骨あたりが冷え、うっすら吐き気を感じる。MRIやエレベーターは平気なので、巨大箱内オープンスペース恐怖症と勝手に名乗ることにする。

そんな折、出かけた先で見つけたのがこの本だった。
「はじめに」で早速著者が『巨大仏ではないが仏像を見て回るのは、いとうせいこう・みうらじゅん両氏の『見仏記』などで以前よりブームになっており、類似品に注意というか、私が類似品である。』とかろやかにわがはいは類似品である宣言をしているのが良い。好みだ。

さてなぜ大仏が怖いという人がいるか。それについては著者はこう考える。

突然不穏なことを言うようでなんだが、世界平和大観音にも牛久の大仏にも、ぬっとした巨大仏にはすべて、何か妖怪的な、見ようによっては、人間のことなどまったく知ったことではないというような、非情な手触りがないだろうか。仏さまだから、本当は慈悲の心に満ち溢れているはずなのに、そんなもん一切わし知らんがな、とでもいうような冷たさが、巨大仏にはないだろうか。

巨大仏はどこか向こうのほうを見ている。ちいさな人間のことなどまるで見ない。そんな恐ろしさを感じる人もいるのかもしれない。じっと下界を見つめられてもそれはそれで怖いだろうけども。

長い巨大仏巡りに疲れてきたのか、だんだん考察がゆるくなってくるのも魅力だ。
そもそもが巨大仏は地元の実業家に降ってきた天の啓示やら何やらをきっかけにバブル期を中心に昭和平成のはざまに『大仏時代』としてにょきにょき建てられたのだから、いとうせいこう・みうらじゅんの『見仏記』とは道が違う。
ときどきは仏教の話も入ってくるが、見どころはそこではなくて、いかに巨大仏が周りの景色と浮いているかを楽しむことなのだ。

ジェットコースターと巨大仏。
住宅地と巨大仏。

巨大なものがなぜ怖いのか、それを追いかけようとしていたわたしの思いは著者とともにぬっとあらわれる巨大仏を追いかけているうちに消えていた。
この本を片手に旅をすることはないだろうが、旅先でもう少し行ったら巨大仏があると気づいたらきっとわたしはそこに向かうだろう。

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