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映画『ミッドサマー』トリップ体験とマトリョーシカ

一番怖いのは監督

映画『ミッドサマー』は鑑賞後げんなりとして食欲を失ってしまうタイプのホラーである。

抜けた青い空に柔らかな草木と色とりどりの花々、精白な衣装と対比されて映し出されるのは肉欲・殺人・自殺・抗争・ドラッグと、タランティーノもびっくりのバイオレンスだ。

それでいて面白おかしく笑えるところもないので、ラース・フォン・トリアーの『ドッグウィル』のようにとことん気が滅入ってしまう映画になっている。

しかし監督のアリアスターはとあるインタビューで、「これはホラーっぽいけどラブコメなんだよ!ちょっとブラックだけどね!映画のラストを見れば絶対に気分爽快な快感を感じるはずだからみんな見てくれよな!!」などとイカれた供述をしている。

正直に言って、映画そのものよりも監督の発言の方が怖い。これがラブコメなら『500日のサマー』なんて発禁ものの最恐ホラーになってしまう。

もしこれを読んでいる人で、監督のインタビューを見て「ホラーじゃないのかあ、恋愛の話なら見に行ってみようかな、」と思っていた人は今すぐ考えを改めて欲しい。

彼の話は一切アテにしてはいけない。彼の話術にはまってしまったが最期、この映画の登場人物たちよろしく地獄を見ることになるだろう。
そして多分、監督の狙いはそこにある。

彼は多くの人が直視したり思い出したくないこと、即ち彼や貴方が経験してきた人間関係や恋愛の苦しみと、それを爆破させるために頭の中でしたためてきた妄想を、まざまざと見せつけたくて仕方がないのである。

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人間の最も強い欲求

映画『ミッドサマー』は、家族の喪失と、恋人との疲弊し切った関係に苦しむ主人公のダニーが、異国の地で経験するカルト宗教のお祭りを通じて、孤独を克服しようとする物語である。

そして彼女や登場人物たちは、監督のアリアスターの私生活同様に、共依存を抱えている(アリアスター監督は主人公のダニーは自分の分身であると認めている)。

孤独や依存というと、ネガティブなイメージを持つ人が大半であろう。現代社会においては「寂しい寂しいいうやつはメンヘラ」で、「何かに依存していないと生きていけないやつは大人失格だ」と突き放されることが多い。

しかしそもそも大前提として、人は初めから孤独であって何かに依存しなければ生きていけない、と僕は思う。

『自由からの逃走』で有名なエーリッヒ・フロムは「人間の最も強い欲求は孤独を克服したいという欲求であり、人類の歴史はその記録である」と述べたし、

文筆家の中島らもは作中で人物に「“依存”ってのはね、つまりは人間そのもののことでもあるんだ。何かに依存していない人間がいるとしたら、それは死者だけですよ。」と語らせた。

AV男優の森林原人だって「人は生まれた時から孤独であり、どう克服するかが生きていくうえでの大きなテーマ」だと語っている。

孤独と依存はメンヘラやヤク中アル中ワーカホリックのためだけにある言葉ではない。むしろ孤独と依存こそが人を人たらしめていると言っても良いくらいだ。そして、自立しているよ、と言える人は、複数の依存先を持っているに過ぎない。

その意味で、この映画はホラーもしくはラブコメである以前に、真っ当なヒューマンドラマであるとも言えるのだ。

そして主人公のダニー並びに登場人物たちは、宗教やドラッグに依存し、自失することを通じて孤独の克服を図っていく。

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バッドトリップとグッドトリップ

主人公ダニー一行は、抗うつ剤・マリファナ・睡眠薬etc、様々なドラッグをキメていく。だが哀しいかなその大半は効果がないかバッドトリップに終わってしまう。何かも忘れて気持ちよくなりたいのに、それが許されないでいる。

一方彼らとは対照的に、カルト宗教をキメてグッドトリップしているのが、映画の舞台となるホルガ村の人々だ。どれくらいキマっているかは、実際に映画を観て確認してもらいたい。

ここでは何かに身を任せてトリップし、自失を図るという点で、ドラッグも宗教も同義となっている。

ホルガ村の宗教がグッドトリップを産む仕組みは次の通りである。

ホルガ村とは、一つの"箱"である。
その箱の中で司祭の先導のもと祭りが行われる時、個人たちは興奮状態の中混じり合っていき、その思想や視点を失っていく。
そして箱の中で完全に正しさや価値観が共有された時、個人の孤独が克服されたという快楽が生まれる。

何故ならば、“私“の意思と身体はホルガ村という“箱“の意思と身体で、ホルガ村という“箱“の意思と身体は、“私“の意思と身体であるからだ。
そこにいる限り決して一人になることはない、というわけだ。

また、ホルガ村の人々は箱の一体感を増幅させるために上手いことドラッグを利用している。
史実として、マリファナ・コカ・ペヨーテ・マジックマッシュルームといったドラッグが、古今東西で神を感じるための道具として使われてきた。

こういった薬物は、合理的な思考や言語機能を司る大脳新皮質の機能を取り除いて本能を剥き出しにさせてしまう。そのため、個人を自失させて集団と一体化させやすくするために好都合だったのだろう。

この映画においてドラッグとは、剥き出しにした感覚を増幅させる道具なのである。

例えばアルコールなんかが、一人でしっぽりやる時と、気の置ける仲間と賑やかにやる時では明らかに違う表情を見せて、異なった感情を引き出してくるように。

寂しい時に一人で飲む酒は一層虚しさが積もっていくが、楽しい時に友人と飲む酒は一層楽しさが増していく。

だから、一人でしっぽりドラッグをキメるダニーがグッドトリップして孤独を克服できないのは、当然のことなのだ。

キマリにキマリ切ったホルガ村の人々と、イマイチハッピーになれないダニー一行

ガンギマったホルガ村の人々が、一人一人で突っ立っている非力なダニーたちを飲み込んで、その箱の一部にしてしまおうとする。というのが映画『ミッドサマー』の簡潔な構図である。

物語が進むに連れて彼らの運命がだんだんとわかってくるわけだが、僕は正直思い出したくもない。この映画は考えたって無駄なことを考えてしまうように出来ているからだ。

悶々と悩み続ける観客たちを見て監督がニヤニヤするという意味では、確かにコメディと言えるかもしれない。

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マトリョーシカの空洞

映画の中ではなく僕らの実生活に目を向けてみる。

すると、ホルガ村の宗教のように、みんなを一体化させてしまうことで孤独を克服させる箱は、そこら中に転がっているに気づく。

その箱々は、マトリョーシカのように幾重にも連なって僕たちを覆っている。

キリスト教だって仏教だって新興宗教だって、ライブやフェス会場にクラブだって、盆踊りや遊園地、この映画が上映されている映画館、全てが大なり小なり個人をトリップさせて自失させるための箱なんである。

その空間にいる時、僕たちは知らない誰かと同じ体験を共有している。
それが好きだというたった一つしかないかもしれない共通点のみを繋がりとして、お互いに一個の箱を構成する一つの分子となって、一体化してしまう

その箱を抜けた瞬間、僕らは他人となって孤独に後戻りしてしまうわけだが、確かにその一瞬の幸福は存在するのである。


映画『ミッドサマー』は、そんな一瞬を切り取ろうとした映画である。
かと言って、それを思い出として美化し、額縁で飾ろうとはしていない。
「その一瞬は永遠に続くのか?過ぎ去って箱を全て取り払われてしまった時、お前はどうなるんだ?」という問いを、常に投げかけてくる。

全く余計なお世話だと思う。
箱が全て取り払われてしまった時に露わになるのは、マトリョーシカと同じように空洞であるに決まっているからだ。

空間という箱を外すと、家族や友人や恋人という血や感情・愛着を共有する箱が出てくる。
酒やタバコという薬物と一体化する箱もある。
それ以外にも社会や国家に人種、芸術にファッション文学言語発声身振り表情etc…

あらゆる箱を取り払った最後には、個人は空っぽになる他ない。
箱を持たない個人は存在し得ない

だから僕は、この映画について考えたって無駄だと思う。初めからわかりきっているけれど、わざわざ見たくもないことをしつこく聞いてくるので、うざったい。アリアスター監督はつくづく悪趣味だ。

だけれども、このような意地悪な映画こそが何十年も経っても語り継がれていくのだろう。『グリム童話』が何百年も経った現在でも語り継がれているように。


ところで、ドヤ顔でここまで書いたところでマトリョーシカの一番小さな人形は箱になっておらず、開けられないことに気づいてしまった。

虚しい。やさぐれたい。

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