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ママ友から「パパ」という記号で見られる居心地の悪さについて。

妻のママ友と会話をしていて、妙な違和感を感じることがあります。

これは付き合いの浅い人に多くて、付き合いが長くなってくるとだんだんと減ってくるようです。

その違和感は(この人は、ぼくのことを「パパ」や「男性」という記号に押し込もうとしていないか?)というものです。

まったくの勘違いだったら申し訳ないのですが、ごくたまにそう感じるんです。

この人は目の前にいるぼくという人間ではなく、「パパ」という記号と会話をしているんじゃないかと感じる時があるんです。

どうにも居心地が悪いので、自分に問いを立てながら、この件について考えてみたいと思います。

出会ってすぐの人と打ち解けた会話はできないですし、相手のことを知る必要があるので、まずは無難な会話からスタートしますよね。

それが友人の夫であるなら、どんな人か分からないし、失礼があってはならないとなおさら構えた気持ちになるのはとてもよくわかります。

でも、(この人はこういう人なんだろう)という思い込みを持った上で会話をされていると感じることがあるんです。

この人は仕事が忙しいんだろう。

この人は家事育児をあまりやらないんだろう。

おそらく、自分の夫と同じような人間だろうと仮定して、ぼくのことを見ているんだと思います。

男性=うちの夫

みたいな無意識の図式が出来上がっていて、そこに当てはめてぼくと会話をするのだと思います。

目の前の男性がどういう人間かまったく分からないので、仮の人格設定を与えてコミュニケーションをスタートさせるということですね。

ぼくは妻のママ友がうちに遊びに来てくれるのが大好きで、会話に入ることもあるのですが、主に給仕担当をしています。

ご飯を用意し、ゲストのお酒がなくなれば継ぎ足し、ご飯がなくなれば追加のつまみを用意したり。

(あれ、この人ずいぶん動くな)

と途中から思われるようになると、「うちの夫と違って、色々やってくれて助かるね」と妻に話しかけたりします。

そう言われるのは嬉しいのですが、今度は「いい夫・父親」という記号に当てはめた会話がスタートします。

褒められるのは嫌じゃないですが、「いい夫・父親」はぼくのパーソナリティでもなんでもなく、ただの記号でしかないです。

女性が家事育児をきちんとすると「いい奥さんですね」なんて言われることがありますが、本人としてはあまり嬉しくないですよね。

当たり前のことをしているだけですし、「女性=家事育児をする人」という意図を感じるし、良妻賢母がよき女性像であるという意識もそこには見え隠れします。

家事も育児も、夫婦や家族なら当然の行動ですよね。

男も同じで、「家事育児をする男性=いい夫」という図式は気持ちいいものではないんです。

そこを持ち上げるのは、その人が「そういった環境」にいないことを示しています。

自分の世界とは違うからこそ、反応してしまうんだと思います。

そして、そういった存在にどういった対応をしたらいいか分からないから、「いい夫・父親」という記号に当てはめたコミュニケーションを取ろうとするのだと思うんです。

それに、自分を単なる「男」とか「女」という性だけで判断される違和感も感じます。

ただの男や女ではなく、みなそれぞれ性格が違うし、好きなことや嫌いなことも異なります。

だけど、多くの人は会話の中で相手を自分の中にある記号(その人にとっての常識の範囲内にある記号)にあてはめて見つめ、その人が何者かを深掘りしようとはしません。

お酒が進んでくると、多くの女性は夫の不満を言い始めます。

ぼくがいると話しにくそうなので、ぼくは逆に積極的にそこに入っていきます。

そうなんですね。それは大変ですね。

でも、どうして夫さんはそうなんでしょう?

なぜ、あなたとの関係を大切に感じないのでしょう?

話の途中から、ぼくはグイグイ夫婦の話題に入り込んでいきます。

他の方たちは(え?そこまで聞くの)と戸惑う人も多いですが(ちなみに、ぼくは会社の飲み会でも同僚に夫婦問題を根掘り葉掘り聞きます)、当の本人は意外にも話してくれるんです。

なぜ、自分たち夫婦は不仲になったのか?

決定的な瞬間はいつだったのか?

そのとき、どう感じたのか?

これから、どうしていきたいのか?

おそらくですが、多くの人は話したいのだと思います。

心の奥底に澱のように溜まっている沈殿物を出したいのだと思うんです。

誰にも言えなかった感情を、自分でも気がつけなかった感情を、誰かに聞いてもらいたいんです。

そして、誰かに話すことで、少しだけ、ほんのちょっとだけ、気持ちがすっきりするんです。

ここまでくると、彼女たちはぼくを「いい夫・父親」という記号では見なくなります。

ぼくへのカテゴライズは「私の話を聴いてくれる人」になるんです。

思えば、ぼくを「パパ」や「夫」という記号にはめて話をする女性に対して、ぼくはきちんと話をしていなかったのかもしれません。

彼女たちの心をそっと開き、足を踏み入れ、そこに共感を寄せていなかったのかもしれません。

料理を作ったり、お酒の用意をしているので、そんな時間は確かにあまりありませんよね。

うん、なんかわかった気がします。

ぼくが心理的に相手に近づいていなかったから、親密性を感じることができず、ぼくがあまり好きでない「パパ」や「夫」という記号に当てはめてコミュニケーションを取るしかなかったのかもしれません。

そして、彼女たちが男性に抱くイメージが「ダメな夫」か「いい夫」の二択しかないことも原因かもしれません。

世の中にはいろんな男性がいるのですが(ぼくのように夫婦関係研究が趣味という変わった人も)、そのバリエーションの豊富さを目にすることがないし、多くの男性とコミュニケーションを取ることもないので、自分の中に抱く男性のイメージが狭まってしまうのかもしれません。

これは男性も同じかもしれないですね。

コミュニケーションを取る早い段階から、自分がどういう人間かを伝え、相手がどういう人間を知ろうとする姿勢が大切なのかもしれません。

呉服屋で働いていた頃は、知り合ったばかりの方に質問ばかりしていましたが、あれはその人を知ろうとするためのアクションでした。

その人を深く知れば知るほど、この世に同じ人は一人としておらず、みんな異なっているんだと感じることができました。

そして、お客さま一人一人をそれぞれ異なる存在として、大切に扱うことができるようになったんです。

もう一度、あの頃に立ち戻り、積極的に相手を知ろうとし、その中で自分を知ってもらうことを意識していこうと思います。

うん、なんだかすっきりしました。

相手をママやパパ、妻や夫、母や父といった記号に落とし込まず、一人の人間として深掘りする癖をつけると、より深い関係性をその人と結べるような気がしてきました。

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