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鎧を脱げない男たち

21時のオフィスには、ぼくしかいなかった。

ぼくのデスクだけが照明に照らされ、まるで世界で1人だけ取り残されたような寂しさを感じながら、ぼくはメールを打ち続けていた。

「大変申し訳ありませんでした」
「以後、気をつけます」

呉服屋から商社に転職した22歳の頃、ぼくはメールにそんな文章ばかり打っていた。

産業用機械を扱うその商社では、ぼくは完全なるお荷物になっていた。

仕事でミスをすると罵声を浴びせられ、毅然とした態度を取っていないと客先から舐められ、不利な条件を突きつけられる。

こんなハードな世界で生きていける人間なんているんだろうか?

ぼくはこの業界で働き続ける人たちを、同じ人間とはどうしても思えなかった。

彼らは傷つくことはないんだろうか?

気を抜けば刺されるような毎日を送り、イヤになることはないんだろうか?

彼らは本当に本音で話しているんだろうか?

あれから17年が経ち、何度も転職を重ねた今のぼくならはっきりとわかる。

彼らは本音なんて出していなかったんだ。

自分の心が傷つかないように鎧をまとっていたんだ。

いつの間にか身につけていたその鎧を、自分の身体の一部と錯覚し、気がつけば柔らかな本音を出せなくなっていたんだ。

今のぼくも、時と場合によって鎧を身にまとっている。

そうすることで自分の心を守り、仕事を前に進めることができるからだ。

かつての上司たちとぼくとの違いは、ぼくがいつでもその鎧を脱ぐことができることだ。

だけど、世の中の多くの男性は、自分が鎧を身にまとっていることに気がついてすらいない。

”有害な男らしさ"といった言葉でくくられ、表にはなかなか現れないその鎧の正体を、この記事では解き明かしたいと思う。

鎧をいつでも脱げるようになれば、妻との会話においても本音を言いやすくなるはずだ。

たとえ、涙があふれる会話になったとしても。

仕事の時には別人格になる。きっとそんな人もいると思う。

仕事になればプライベートとは違い、頭を高速回転させバリバリ働き、論理的に仕事をポンポン進めていく。

だけど、家に帰れば緊張は解け、"いつもの自分"に戻る。

簡単に言えば、それが"鎧"だとぼくは考えている。

では、なぜ仕事モードとプライベートモードがあるんだろう?

プライベートモードで仕事ができないのはなぜだろう?

そもそもプライベートモードが存在せず、仕事モードしかないと感じている人もいるはずだ。

そんな人は鎧の存在に気づくことができていないため、脱ぐことすらできていないのだ。

ぼくは20代後半のある時、仕事で男性は本音を言っていないことに気がついた。

もっと言うならば、本音を言っても誰も受け止めてくれないと諦めているからこそ、本音を出せていないのだ。

本音を出すとはプライベートモードになるということだ。

ふっと湧いてきた素の感情。

なんとなく誰かに伝えたくなった気持ち。

それがポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ、きっと誰しもが触れれば壊れそうな柔らかな思いを抱いたことがあると思う。

20代後半の頃に働いていた会社の上司が、こんなことを言ったことがある。

「オレ、カフェ巡りが好きで、古民家カフェみたいな家を建てたいんだよね」

いつもロジカルなことしか言わない男くさい上司が、突然そんな女子っぽいことを言い出したので、ぼくは思わず笑ってしまった。

「カフェ巡りしてるんですか?」

ふふっと笑いながらぼくがそう言った瞬間、彼は「笑うなよ!」と本気で怒り、もう二度とその話をしてくれることはなかった。

噂では20年間貯めたお金で、ついに古民家カフェ風の家を建てたそうだ。

ぼくがその会社を退職し、転職後に再会した時、その上司はぼくのことを初めて会うクライアントのように扱った。

彼がまとっていたものこそ、鎧なのだと思う。

ぼくの前では決して崩さなかった、そのかたくなな姿勢こそ、本人ですら気がついていない鎧そのものなのだ。

そして、これは上司だけではなく部下の立場においても同じなのだ。

上司から「笑うなよ!」と本気で怒られたり(笑ってしまったぼくも悪いのだけど)、久しぶりに再会したのにまるで他人のように扱われるなんて、普通の心理状態では耐えられるものじゃない。

傷つきそうになる自分の心を守るために、部下もまた鎧を身にまとうようになる。

上司からの叱責や、一歩間違えばパワハラになるような言動が辛くて、休職する人や鬱になる人はたくさんいる。

ぼくもそういう人たちを何人も見てきた。

彼らに対して、鎧をまとった人間がなんて言うのか知っていますか?

「やっといなくなってせいせいした」

「休んでるのに給料もらってるなんて泥棒だろ」

「なんであいつクビにならないんだよ」

彼らは口々にそんなことを言う。

だけど、心を崩した人たちは鎧をまとうことができない人たちなのだ。

もしくはまとっていた鎧が壊れてしまったのだと思う。彼らがまとえる鎧の耐久度はあまりに脆いから。

そんな世界の中で生きていれば、誰もが自分がまとう鎧の強度を上げようとする。

傷つきたくないからだ。

自分の柔らかな心を誰にも傷つけてほしくないからだ。

自分の心を守るために、部下もまた鎧をまとうようになる。

鎧をまとったもの同士が鎧越しに会話をする。

力強い言葉を鎧越しに投げかけ、それを鎧で受け止める。ときには相手に跳ね返す。

ビジネスにおける謝罪はプレイのようなものだという人もいる。ゲーム感覚というか、自分ではない自分になって謝罪をする。

そうしないと心がもたないからだ。

それもまた鎧なのだと思う。

そして、鎧を身につけて生まれてきた強者もいれば、頑丈な鎧を身につけなければ生きていけない人もいる。

鎧を身につけて生まれてきたものは、そうでないもの気持ちが理解できない。だから、強い言葉を発し、相手を傷つけていることに気がつくことすらない。

気がつくことができないからこそ、彼らは反省することがなく、「鎧でぶつかることが前提」のゲームを続けるのだ。

ぶつけられた方は耐久度の高い鎧を身につけて応戦し、上司も部下も屈強な鎧をぶつけ合うゲームを続ける。

そしていつしか、その鎧は心と一体化し、心が壊れるときまで脱ぐことができなくなる。

家庭の中においても、ぼくら男性は心が壊れる時まで、その鎧の存在に気がつくことができない。

臨床歴25年の臨床心理士さんと初めてお会いしたとき、あまりの自然体の姿に驚いたことを覚えている。

なにも身構えず、嬉しいことも嫌なことも、すべて自然体の言葉と態度で返してくれる。

そのあまりの自然な姿に、ぼくもまた自分の柔らかな心を見せることがまったく苦ではなかった。

気がつけばインタビューをしに行ったはずが、ぼく自身が自分の柔らかな心をさらけ出していた。

その方は鎧をまとっていなかったのだと思う。鎧をまったくまとっていない人間を見ることなんてとても貴重なので、ぼくは自分が感じた違和感をなかなか言語化できなかった。

呉服屋で働いていた頃、ぼくはたくさんの女性相手に仕事をしていた。転職してから男性相手の仕事が増えたけれど、圧倒的に男性の方が本音を言わない傾向がある。

そして、会話をしていて楽しいと感じるのも圧倒的に女性だった。

なぜこんなにも女性との会話は楽なんだろう?

もちろん、高校の同級生などの仲のいい友人たちと話していても楽しいと感じる。

だけど、仕事においては圧倒的に女性と会話をしている方が楽なのだ。

これもまた、”鎧の存在”が影響しているのだと思う。

プライベートで仲のいい同級生たちと話すときは、もちろん鎧なんてまとう必要なんてない。

彼らから傷つけられる心配なんてないからだ。彼らがぼくの柔らかな本音を批判したり、ぼくの心を傷つけるような直接的な言葉を投げかけることはない。

仕事において女性と話すとき、ぼくは意識して鎧を脱ぐようにしている。そうしないと本当の気持ちを言ってくれなくなるからだ。

それに、女性の中には鎧をまとうことができず、素のままの姿でコミュニケーションを取ろうとする人もいる。こちらのことを信用してくれていれば余計にそうなる。

そんな人に対してこちらが鎧をまとい、相手の言葉を跳ね返したり、相手の言葉を素直に受け入れないと、心を閉じられてしまう。

呉服販売の時はまさにそうだった。どれだけ鎧をまとわずに相手の心の中に入れるかが、売上の鍵を握っていた。

強い言葉を発すると多くの女性は心を閉じてしまうが、男性は逆に強いボールを打ち返してくることが多い。

さらに強いボールを受け止めるためには、こちらも”鎧”をまとうことになる。

そのため、男性とのコミュニケーションは素の心のままではハードなことが多く、自分の心を守る必要が出てくる。

仕事に対する意見が、個人への攻撃にすり替わることも多く、それを受け取るぼくらも、ついつい”個人攻撃”されていると思い込みやすくなる。

本当に個人攻撃されている場合もあれば、ただの意見でしかない場合もある。

だけど、それを「ひとつの意見」として受け止めることができないと、ぼくらは心に大きな傷を負うことになる。

意見と感情を分ける訓練をされていないぼくらは、往々にして意見を攻撃として認識しがちであり、また、他者への意見を攻撃にすり替えがちだ。

ぼくら男性は心が強いわけでもなんでもない。

ただ、鎧をまとっているだけなんだ。

自分の柔らかで大切な心を他者に壊されたくないがために、鎧をまとっている。

仕事という日常生活では、自分の心を壊されそうになる体験があまりに多いからだ。

自分を守るために身につけた鎧を脱ぐことができず、体と心に一体化してしまったその鎧は、仕事においては有利なことが多いが、家庭においては不利になることが多い。

自分の柔らかな気持ちを妻に話すことができなければ、妻もまた話すことはない。

妻から見た場合、自分の夫がなにを考えているのかわからないことが多いと思うけれど、その理由は”考え”のベースになる”感じていること”が鎧によって覆われているからなのだ。

誰からも傷つけられないように身につけた鎧の中で、ぼくら男たちは自分自身ですら認識できなくなってしまった柔らかな思いを抱いている。

そして、ぼくら男たちは、自分自身では決して気がつかないけれど、いつかこの鎧を誰かに壊して欲しいと、心の奥底で願っているのだ。

楽になりたい。

この鎧を脱いでしまいたい。

ありのままの自分の姿で生きていたい。

自分だけでは辿り着けない心の奥深くで、ぼくら男たちは自身の鎧への破壊衝動をたぎらせているのだ。

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