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【雑感】分かった気にはならないほうがいい

白い巨塔

昨夜は『白い巨塔』というドラマを観ました。

ドラマの中で最も印象的だったのは、主人公の財前が自らのガンの存在を知ってから、「病で苦しむ」とはいかなるものか、「死」とはいかなるものか、を知っていく様子が描かれる最終話の後半シーンです。最後に「これが、死か……」と言って旅立っていく描写からも、これまでとは違う「死」を体験していることがうかがえました。

医者である以上、これまでも「病の苦しみ」や「死」といった状況には向き合ってきたはずですが、それでも自らがそのような状況になった時、見えてくる世界はまったく違ったものになるということを考えさせられました。

障害者は『障害者』のことを知らない

以前、お世話になった障害学の先生が興味深いことを言っていたのを思い出しました。

「障害を持っている当事者も『障害者』のことを知っているわけではない。知っているのは、せいぜい『障害者』のごく一部のことにすぎない。」

たとえば「視覚障害」の人は「肢体不自由」の人の気持ちをよく知っていると言えるでしょうか。「障害者」というラベルでみれば二者は同じカテゴリーとなります。しかし普通に考えれば状況がまったく異なります。野球選手に「サッカー選手の苦しみは分かりますか?」と聞いているようなものです。

では、「全盲」の人は「弱視」の人の気持ちをよく知っていると言えるでしょうか。「全盲」も「弱視」も一般的に「視覚障害」と区分されますが、これも状況がまったく異なると言えるでしょう。野球で言えば、ピッチャーに「サードのこと分かるか?」と言っているようなものです。

では、特別支援学校に通っている「弱視」の子どもは、通常学級に通っている「弱視」の子どもの気持ちを理解できるでしょうか……

こうした議論を突き詰めていくと、結局のところ「(一人の)障害者」は『障害者(一般)」を知っているとは言えないということになります。

もちろん、当事者の声は非常に重要ですし、共通する部分も多くあります。ですから、当事者の声を無視する必要はないのですが、同時に「自分は知らない部分もたくさんある」ということを無視してはならないと思うのです。

話を聞いた当事者の声がすべてではありません。一番怖いのは「部分を見て全体を分かった気になっている」ことではないかと思うのです

痴漢のはなし

最近、なにかとTwitterで話題となっている「痴漢」問題についてのツイートをあれこれと見ていて感じたことがあります。「お前らは被害者の感情を分かっていない!」と他者を非難している人たちは、本当に『被害者』の感情を分かっているのかということです。

彼らの言っている被害者というのは「自分」や「友人」といった関係者である場合が多いのではないでしょうか。(証拠はありませんが、自分の経験を語る人が多いと感じたので。)そして、もしそうだとすれば、それを痴漢被害者の感情に一般化することには相当の注意が必要であると思います。なぜならば、それは部分であって全体ではないからです。

こちらは、「被害者が無知と決めつけるのは良くない」と記されたブログです。

もちろん被害者だからこそ知っていることもあると思います。しかし、それを踏まえた上で、全員が「無知」を認めていることこそ議論の前提ではないかとわたしは考えています。無知というのは、知識がなくて良いという意味ではありません。持っている知識が断片的で偏っていることを認識しておく(=無知の知)必要があるということです。

また、社会心理学には「行為者ー観察者バイアス」と呼ばれるものがあります。これは、他者に対しては内的要因(個性や気質)を過大視しやすく【対応バイアス】、自分の行動に対しては内的要因よりも外的要因(周囲の状況)を過大視しやすくなるというバイアスのことです。

痴漢問題でも似たようなバイアスがかかりやすいことを認識しておく必要があると思います。個人的には、被害者感情が対応バイアスを助長しているように見えることが多いなと感じています。被害者感情に寄り添うことが解決を遅らせるなんてことにならないように注意したいですね。

もちろん、心理学者がバイアスから完全に解放されていると言うつもりはありません(それこそバイアスですね……)。ただ、某先生の炎上をめぐってはバイアスに塗り固められたリプライがあまりにも多く、いろいろと難しいなとも思いました。心理学者の方がまだバイアスには気を遣っている印象でした。例のツイートも学習心理学の基礎知識があれば何も難しくない話だったわけですが……

ディスコミュニケーション

ついでに書いておきますが、「良い / 悪い」というのは価値判断を含む表現ですから、異なった意味で解釈されやすいという難しさはあったかもしれません。Twitterというのは非常に高度なコミュニケーションツールであって、ディスコミュニケーションをなくすのは本当に難しいことだと改めて考えさせられました。

ただ、Twitterという「環境」が人びとのディスコミュニケーションを助長していると考えることもできるわけで、実際のところ、いわゆる「クソリプ」や「炎上」の心理についても環境要因から説明できる分散があるでしょうね。

ですが、個人的な行動修正では当然、内的要因についても検討してみることが必要でしょうね。では、クソリプ減らすためにできることはなんでしょうか。一つの答えはこれです。「安易に分かった気になるのをやめればいい」のです。

まとまりのない雑文となってしまいましたが、本日はこの辺で。

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