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【雑感】「いじめ」はいかに定義されるのか

いつも悩んでいることがあります。

「いじめ」「差別」「ハラスメント」といったものについての線引きは誰がどのようにするのかという問題です。ここでは「いじめ」について考えてみたいと思います。

いじめを定義するということ

いじめ防止対策推進法によると、「いじめ」とは、

児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係にある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの

と定義されています。しかし、この定義で「なるほど。だったら、こういう行為は『いじめ』でこういう行為は『いじめ』ではない!」というように、全てをはっきりと分けられるかというと絶対に無理でしょう。なぜなら、定義の中に被害者の感情(当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じている)が入っているからです。

もちろん、多くの児童生徒が心身の苦痛を感じるであろう行為もあるでしょうが、現実にはどちらとも言えない行為もあると考えられます。たとえば「デブ」という言葉をかけることは、ある人にとっては自分の「キャラ」として受容できるために嫌なものではない(=いじめではない)としても、他のある人にとっては自分の容姿への悪口だと感じてしまい、嫌に思う(=いじめである)かもしれません。

文部科学省は「いじめ事例集」を公表しています。もちろん、こうしたものは現場での判断において非常に参考になるでしょう。しかし、挙げられているものが全て「いじめ」とは言えませんし、ここに公表されていない「いじめ」もあると考えられます。定義上は「この世のあらゆるコミュニケーション行為がいじめとなり得る」ことを念頭におく必要があります。

このように考えていくと「いじめ」というものは、目の前にはっきりと存在しているというよりも、目の前に起こっている事象に対して、誰か(特に、被害者本人、または教員・家族をはじめとした周囲の人間)が「いじめ」というラベルを貼ることで「いじめ」になると考えられます。

いじめ統計のこと

しばしば、いじめ統計はいじめの発生件数ではなく「認知件数」なんだという主張を見かけます。そうした意見が間違っていると言うつもりはありませんが、これまでの議論を踏まえるならば「認知件数」というよりも「認定件数」と呼んだ方がより適切と言えるかもしれません。

最近、いじめに関するニュースをいくつか見かけました。

これは、外国にルーツを持つ少女がいじめで自殺してしまったことをめぐる報道です。記事の中にこんな一節があります。

中学1年の3月。げた箱に行くと、美桜子さんの目に飛び込んできたのは、自分の靴の中にびっしり貼り付けられた画びょう。美桜子さんは、画びょうが入ったままの靴を持って担任にいじめを訴えました。担任は画びょうを受け取っただけで、こう言ったといいます。「俺のクラスにいじめなんかするやつはおらん。お前の思い過ごしだ

この発言をめぐる背景について、これまでの議論をもとに考えてみたいと思います。まず、靴の中にびっしりと画鋲を貼り付ける行為が「心理的・物理的な影響を与える行為である」ことは自明です。さらに、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じていることも明らかです。ここまでくると、この事案は「いじめ」と認定しないわけにはいかない事案なのです。

しかし、このように被害者や家族が「いじめ」という認識を持っていても、先生が「いじめ」という認定を行っていない以上、おそらくこの事案はいじめ統計に含まれていないと考えることができます。そのように考えれば、いじめ統計というものは「教師が認定したいじめ件数」についての統計と言えるでしょう。

もう一つ、別の事案です。こちらはクルド人少女へのいじめ事案ですが、読んでいるだけで胸が張り裂けそうになる重たい事件です。

こちらの事例でも、学校ぐるみでの「隠し」と書かれています。校長先生はおそらく「解決」を図ろうとしたのでしょうが、(読めば分かる通り)こんなに酷い対応しかできないというのは、非常に残念な気持ちです。この事案は統計に載るのか微妙なところですが、このような雰囲気の学校からの報告はやはり少ないことが予想されてしまいます。

二つの事例から分かることは「いじめ」の定義は「被害者感情」をベースにしていたはずなのに、明らかに統計として集約される数値は「教師がいじめであることを『認定』した数」であり、そこに「被害者」の入り込む余地はないのです。

無論、被害者からの訴えによって教師がいじめを認定することはあるでしょうし(おそらくそうしたケースは多いでしょう)、教師に想いを伝えることは大切にして欲しいのですが、ここで問題視したいのは「タテマエ」と「現実」が乖離してしまうリスクを「教師」が握っているということです。

本稿のおわりに

今回のnoteでは、いじめの「定義」(=認定)をめぐっては、一筋縄ではいかない問題であるということを書きました。きっかけとなったのは、こちらのブログです。

これについては色々と思うところがあるのですが、今回の話に合わせて言えば、次のような記述が気になりました。

批判といじめは違います。
批判は論理的、もしくは統計的根拠があり、いじめにはありません。

いじめには論理的・統計的根拠がないと言いますが、はっきりといえば現場で起こっているいじめの多くには「理由」があり、彼らなりの「根拠」があると思うのです。もっと言えば、「統計的根拠があればいじめではない」という議論に進んでしまうことを懸念しました。それは明らかに間違っています。

このような「勝手な定義」というのは時に「これはいじめではない」というように自らの行為の正当化の論理として使われる可能性があります。「いじめはダメ」と分かっていても、自分の行為がいじめだと認識していないケースも少なくないと聞きます。つまり「これは『いじめ』じゃないんだ」と彼らなりに正当化しているのです。ですが、これまで見てきたように、本来は行為者自身がいじめであるかどうかの認定を行うことはできないのです。

しかし、本稿で見てきたように、いじめの最終的な定義者は「被害者」ではなく、周囲の大人、特に「教師」であると考えられます。私見ですが、このあたりにいじめ被害がなくならない一つの落とし穴があるような気がします。こうした点は今後の検討課題です。また、本稿の議論を踏まえれば「いじめゼロ」という目標の恐ろしさを思い知らされます。いじめをゼロにする簡単な方法は「教師が『いじめ』認定をやめる」ことになってしまいますし、「いじめゼロ」はある意味で「教師の力量不足」を意味することにもなるからです。

「いじめを解決した量で教師を評価しよう」なんて話もありますが、そうした「解決」を認定するのが誰なのかという問題もあります。

私は、いじめをゼロにしたいとは考えていません。なぜか。いじめであるかについてのボーダーラインは状況によって異なります。先にも書きましたが「この世のあらゆるコミュニケーション行為がいじめとなり得る」定義である以上、いじめの量というものはそのボーダーラインを引く位置によって決まると考えられます。つまり、いじめをゼロにするには「あらゆるコミュニケーションをやめる」か、「あらゆるコミュニケーションをボーダーラインを超えないような位置のものにする」ことが考えられるでしょう。

後者がもちろん「理想」なのですが、ボーダーラインの位置は明確に決まっているものではありません。すなわち、絶対的な「いじめゼロ」を目指すのであれば、前者の選択肢を取るか、ボーダーラインを固定する(被害者感情を無視する)ことの二択になると言えます。

明らかに、本来の目的を逸脱していると言わざるを得ないでしょう。ですから、目標は「いじめゼロ」よりも「いじめ被害の早期解決」程度で良いと思います。個々の教師は、いじめの解決者である以上に、いじめの「認定者」となるのです。だからこそ、定義を踏まえて、個々の事例に対して「決めつけ」をしない態度が求められると思います。


文献




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