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【雑感】「迷惑」であれば命を奪うことも許していいのか

私たちは「迷惑」とされたら死ななければならないのでしょうか。
最近、やたらと広がっている「迷惑」言説を命の問題に絡めて考えてみました。

安楽死のこと

昨夜放送されたNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」が話題となっています。とある日本人の女性がスイスで安楽死をするまでを追いかけたドキュメンタリーです。

安楽死について語ることは本当に難しいです。「死」というものが、私たちが人生を終える最後の最後まで知ることのできないものであるからです。そもそも、安楽死とされているものが本当に「安楽」な死に方なのかということすら分からないのです。

2010年に朝日新聞が行った調査では、安楽死の法制化に賛成する声が7割以上を占めていたといいます。この調査では、自分の死の迎え方についてもあまり考えないほうという意見が多く、この数字をそのまま受け入れることはできないと思われますが。(堀江, 2014 ; 橘, 2017

『安楽死を遂げるまで』という著書もあるジャーナリストの宮下洋一さんがある対談記事でこんなことを述べていました。

そもそも多くの日本人は安楽死と尊厳死の違いすら理解していない。実は、取材の成果を雑誌に発表するようになって、私のもとに安楽死を望みたいという日本人から、複数の連絡が寄せられました。だけど、実際に返信したり会ったりしてみると、まだ20、30代と若い彼らは、安らかに死ねるという漠然としたイメージを抱いているだけで、中身についてはよく知らなかった。

安楽死についての具体的な議論はほとんど行われていない上に、正しい理解も広まってはいないけれど、なんとなく安楽死を望む声が多い、それが日本の現状だと思います。

安楽死と「迷惑」

一方で、世界に目を向けてみると、安楽死の議論がかなり進んでいる国も多くあります。冒頭のドキュメンタリーに出てくるスイスもそうです。
こうした国々での議論と日本での議論を比べた時に最も違うと考えられているのが「迷惑」という論点です。

安楽死をめぐる議論を巻き起こした橋田壽賀子さんの記事。その中にこんな一節があります。「人さまに迷惑をかける前に死にたい。それが私の望みです

ただ、宮下洋一さんが指摘するように「迷惑」を理由とした安楽死は国際的には認められていません。安楽死は、あくまでも純粋な「自分の意思」によって選ばれるべきものだと考えられているからです。

日本で安楽死を導入すると、自分の意思よりも、家族の空気を重視して安楽死を選ぶという危惧はどうしても残る。だから、私は日本では安楽死を法制化すべきではないと考えています。
個人の意思によって死ぬという欧米の考えと、自分より周囲を考える日本社会の価値観とは違うんです。

医学者で生命倫理の問題にも詳しい美馬達哉さんのインタビュー記事でも非常に重要な指摘がなされています。海外での「安楽死」についての議論の根本にあるものが見失われがちであるという指摘です。

「『高齢になったり病気が進行して、家族や周りの人に迷惑をかけるのは避けたい』といった理由で、安楽死に賛成する人もいます。橋田壽賀子氏の発言も同じ趣旨でした。それに対して反対派の人は、『当事者が周囲からの無言の圧力を感じ、本当は生きたいにもかかわらず死を選んでしまう危険がある』と主張しています。
この対立のポイントは、賛成と反対のいずれもが、当事者ではなく家族など“当事者を取り巻く人々”に視点を置いていることです。“迷惑”というキーワードがそれを象徴しています。
しかし、周囲との人間関係を重視して生き方を決める日本的な発想は、『自己決定をどこまで認めるか』という観点で制度化を進めた欧米とは正反対です。発想の根本的な違いを忘れ、表層のルールだけを見て是非を論じたり、取り入れるのは避けるべきでしょう

「迷惑」に厳しい社会

社会学者の津田正太郎さんが面白い論考をされていました。マスコミの迷惑行為への批判がこれほどまでに加熱する背景を読み解いています。

何が迷惑行為なのかを定義するのは難しく、迷惑をかけたとされる側と、かけられたとされる側とが簡単に入れ替わるようなことも起きる。結果として、「迷惑な人」と叩くという娯楽だけではなく、「迷惑だと訴える迷惑な人」を叩くという娯楽すらも生じることになる。
「他人に干渉しない」ことが規範になったとき、他人に不愉快なかたちで干渉すること、つまり迷惑をかけることは規範からの重大な逸脱になる。そして、迷惑行為の定義が曖昧なことに加え、全体でみれば日本人のマナーが向上したことが、さまざまなところに「迷惑」が見いだされ、糾弾されるという状況を生んでいる。いわば、不寛容な寛容社会とでも呼ぶべき社会が生まれているのである。

この論考で注目しておきたいことがあります。
迷惑というものは明確に定義することが難しい」ということです。

そもそも「自分が迷惑を感じる」ことと「誰かが迷惑を受けていると推測する」ことは別の話です。ネットで多く見られるのは後者の例だと思います。そして、先ほど述べた「安楽死」をめぐる迷惑についても後者ですね。しかし、後者の例は「推測にすぎない」ことを改めて強く指摘しておきたいと思います。

自分が直接的に迷惑を被っているわけでもないのに、他人のことを「迷惑な存在」だと勝手に定義する、他人から何か言われたわけでもないのに、自分のことを「迷惑な存在」と定義してしまう、それが後者のタイプの「迷惑」です。こうした風潮が社会全体に広がっているのではないかと思います。

そして、このタイプの「迷惑」は推測にすぎないわけで、津田さんが指摘したように定義が流動的で曖昧なものなのです。

川崎殺傷事件の犯人を「不良品」だと言う芸人とそれを擁護する人びと

ダウンタウンの松本人志さんがこんな発言をして問題となりました。

人間が生まれてくる中で、どうしても不良品っていうのは何万個に1個、絶対に(生まれる)。これはしょうがないと思う。それを何十万個、何百万個に1つくらいに減らすことはできるのかな、みんなの努力で。こういう人たちは居ますから、絶対数。もう、その人達同士でやり合ってほしい」

その後、Twitterでこんな自己弁護をし、弁護しているツイートをリツイートしていたわけですが、まったく発言の問題を理解できていないその様子には驚かされるわけです。彼を止められる知人はいないのでしょうかね。

サイコパスの脳みそ

先ほど紹介した松本人志さんの意見は、犯罪人類学の父であるロンブローゾの思想にかなり近いと思います。

ロンブローゾは、「生まれつきの犯罪者は、救済の可能性がない。こうした犯罪者は全体の3分の1を占めていて、最も残虐な犯罪は彼らの犯行である。しかし、有罪と裁くことはできない。というのも彼らの犯罪的気質は、彼らの生物学的性質によって決定づけられているからだ」と唱えていました。

しかし、このロンブローゾの見解は完全に否定されています。生物学的要因がないとまでは言えませんが、一般的には「生物学的要因と環境要因の相互作用で決まる」と考えるのが普通です。

ここで大切なのは、決定論的な単純化ではなく、生物学的要因と環境的要因の「相互作用」ということである。こうした複雑な相互作用を丁寧に検討しなければ、犯罪という複雑な現象の理解もできないということである。
つまり、「氏か育ちか」という二者択一的な説明ではなく、「氏も育ちも」そのどちらもが重要であり、それらの複雑な相互作用を理解することが、真の犯罪理解に到達できる方法だということである。

ロンブローゾの思想の反例として、一つの有名な事例を紹介しておきます。

アメリカの神経科学者であるジェームズ・ファロン博士はサイコパスの脳について研究していく中で特有のパターンがあることを見出しました。

そして、あるとき驚くべき事実と直面します。なんと自分自身の脳みそもサイコパスに特有の脳だったというのです。

悪いしつけを受けていたら、サイコパスの危険な3つの要素を育んでしまったことだろう。わたしには、危険人物になりえる生体指標と特性があるけれど、それでも典型的なサイコパスではない

この事例はとても興味深いものです。つまり、サイコパスの脳を持っていることがそのまま反社会的なサイコパスを生むわけではないのです。

先ほどの松本人志さんの意見にもまったく同じことが言えます。どんな凶悪犯罪者であっても、生まれつき「不良品」であるはずがないのです。たとえ、脳に問題があったとしても、そのまま犯罪につながるわけではないのですから。

コメンテーターとして発言をされるなら、少しは勉強してほしいものです……

「迷惑」をかけるくらいならば殺してしまえ

農水省の元事務次官の男性が「引きこもり」の息子を殺害した事件。報道から見えてきたものはなんとも言いがたいものでした。

これまでの調べで、熊澤容疑者は「長男は引きこもりがちで、家庭内暴力があった」と供述していますが、その後の調べに対し、およそ1週間前に起きた、川崎市で51歳の男が小学生らを包丁で殺傷した事件を受けて「川崎の事件を見ていて、自分の息子も周りに危害を加えるかもしれないと不安に思った」という趣旨の供述をしている。
事件直前には長男が近くの小学校で行われていた運動会の音がうるさいと腹を立てたのを父親が注意し、口論になったということで、父親は「周囲に迷惑をかけてはいけないと思った」とも供述している。

この行動についてYahoo!ニュースのコメント欄やTwitterでは「よくやった」という声や、父親への同情の声が割と多く寄せられています。こうした発言をしている国民は、迷惑をかける可能性がある人であれば実際に迷惑をかける前でも殺して良いと言いたいのでしょうか。

いま出てきている情報のみで、大量殺人のリスクが高いと断言することは本当にできるのでしょうか。先ほどの津田さんの論考を思い出せば、父親が主張している「迷惑」はあくまでも推測にすぎないものと考えられます。

また、「犯罪者予備軍は殺してしまえ」と大合唱をしている彼らは、世間から見れば、自身が殺人というものは肯定できる時があるものと捉えている存在、つまり、彼らの言う「犯罪者予備軍」になるという認識はあるのでしょうか。

まぁ、そもそも「他人の迷惑になるかもしれないから殺した」という発言が動機として成立してしまう時点でも本当に怖いなと思います。

さらに、憶測ではありますが、「死にたいなら一人で死ぬべき」の大合唱がなければ、今回のような事件は起こらなかったのかもしれません。

そして「迷惑」の名の下で、亡くなられた方の尊い命が (赤の他人から) 軽んじられていると言わざるを得ないこの状況。
川崎での事件の時に「遺族に寄り添え」「亡くなった方に対して哀悼の意を!」と言っていた人たちがたくさんいたのに、今回は全然いませんね。

考えれば考えるほど、暗澹たる気持ちになります。

太田光が語った「命」のはなし

松本人志さんの発言とは裏腹に、ネット上で大絶賛されたのが太田光さんの紡いだ言葉です。ここで紹介したいのは「自分の命」の捉え方と「他人の命」の捉え方はつながるのではないかという意見です。

「俺なんか、(犯人と)同じ50代ですけど、やっぱり高校生くらいのときに、あー、俺も何も感動できなくなったときがあったんですよ。物を食べても味もしない。そういうときにやっぱりこのまま死んでもいいんだっていうくらいまで行くんだけれども。そうなっちゃうと他人の命も・・・。自分がそうなら(死んでもいいとなるなら)他人の命も・・・。自分がそうなら、他人の命だって、そりゃあ、大切には思えないよね
「いろいろなことに感動して、いろいろなものを好きになる。好きになるってことは結局、それに気づけた自分が好きになるってことで・・・。それっていうのは、人でも文学でも、映画でも、何でもいいんだと・・・。
そういうことに心を動かされた自分って、捨てたもんじゃないなって思うの。
生きている生物や人間たちの命もやっぱり、捨てたもんじゃないと

憶測の「迷惑」が蔓延する社会で

迷惑かもしれない、だから自分の命を軽んじて「安楽死」を望む高齢者
迷惑かもしれない、だから息子の命を軽んじて「殺人」を犯した父親
迷惑かもしれない、だから他人の命を軽んじて「殺人」を肯定する社会

「迷惑」という価値観が、尊い人命を軽いものにしてしまっている。
いま、日本を覆っている息苦しさの正体の一つはコレなんじゃないかなと思っています。命の尊さが失われてきたのです。

太田光さんが述べたように「自分の命」と「他人の命」に対する捉え方がリンクするのだとすれば、安楽死の問題と今回の殺人事件は密接につながったものであると考えられます。

そして、ジャーナリストの安田純平さんに対する「自己責任論」バッシング、衆議院議員の杉田水脈さんの「生産性のない人にお金をかけるな」発言、元アナウンサーの長谷川豊さんの「自業自得の人工透析患者を殺せ」発言。こうしたものについても、根底には同じものがあるような気がします。

私たちは、他人に何一つ迷惑をかけてはならず、社会に貢献するためだけに生き続けなければならないのでしょうか。
そして、私たちは「迷惑」とされたら死ななければならないのでしょうか。

「生きるに遠慮がいるものか」

「生きるに遠慮がいるものか」
このnoteを書きながら思い出したことばです。

世の中には「遠慮」によって命を奪われてきた人たちがいます。障害者をはじめとしたマイノリティです。しかし、こうした「遠慮圧力」が「迷惑」ということばに置き換わり、いまの日本社会で社会的弱者を中心に多くの国民をいっそう苦しめるようになったのではないかと考えています。

荒井さんのことばで本稿を終えたいと思います。

 自分たちが生きる社会の中で、「生きること」そのものに遠慮を強いられている人がいることを想像してみてほしい。「遠慮圧力」が、ときには人を殺しかねないことを想像してみてほしい。
 たしかに、ある程度の「遠慮」は美徳かもしれないけれど、だれかに「命に関わる遠慮を強いる」のは暴力だ。多くの人は「遠慮で人が死ぬ」とは思っていない。でも、マイノリティにとって「遠慮が死因になる」ことは、現実に起こり得る恐怖だ(こうしたことは生活保護の現場でも起きている)
 残念なことに、どれだけ言葉を重ねても、「そんな想像などできないし、したくない」という人たちはいる。そうした人たちと向き合う度に、障害者運動家たちが闘ってきた「マジョリティの他人事感覚」の壁の厚さに、ぼくは気が遠くなる思いがする。

長文をお読みくださり、ありがとうございました。

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