LadyもGirlも自分を指す言葉と思えない、でも少なくとも“Everyone”には含まれている自分
自分の性的指向と性自認について、自分が異性だけを好きになるわけではないだろうなという感覚は中高生の頃からあったように思いますが、明確に自認したのは大学生になってからのことで、そのときは自分はバイセクシャルなんだろうと思っていました。
それから大学生のうちにXジェンダーという概念を知り、シスジェンダー(肉体の性別と自認が一致しているセクシャリティ)とXジェンダーを行ったり来たりするような自認の時期が長かったです(その状態自体がXジェンダーなのではというツッコミは、置いておいてください)。
今は「好きになる性別が決まっていない」「性別違和がある」と動詞・形容詞的な説明の方がしっくりきているので、そういう言語化をしています。
自分のSOGI(Sexual Orientation & Gender Identity 性自認と性的指向)については前にもnoteで書いたのですが、内訳は変わっていなくてもどの言葉を選ぶのか、どう言語化するのかということは少し変わっているので、この記事では2021年の自分のSOGIについて記録しておこうと思っています。
(その2年前に書いたnoteのリンクも貼っておきます)
今回はどちらかというと性的指向よりも性自認、自分の性別違和について、例えばどういうときに違和感を覚えるのか、どういう環境が心地いいのか、文章にして整理してみようと思っています。
「好きになる性別が決まっていない」はそのままで伝わるものの、「性別違和がある」はもう少し説明が必要な言葉で、伝えることが難しく、自分の中でも言語化に苦労することがあるからです。
この文章の目的には、性別違和やXジェンダーといった存在を知ってほしいという気持ちがなくはないけれど、これが性別違和です! Xジェンダーとはこういうものです! という説明は私にはできないし、そう思ってほしいわけでもないということを先に書いておきます。
自分が自分の状態について整理することを一番の目的として書く文章であるという前提で読んでいただけると幸いです。
1.「性別違和」とは
さて、はじめに「性別違和」という言葉の意味について触れておきます。
「性別違和」「性別違和 とは」といった言葉で検索すると、性同一性障害、性別違和、性別不合といった言葉が検索結果に並ぶようです。そのうち性同一性障害という言葉が出てくるページについては、性同一性障害(トランスジェンダー)が疾患・精神病ではないとされたという内容のものが多いです。
ググッて検索上位に出てきたサイトの、性別違和の定義を以下に引用します。
性別違和では、解剖学的な性が自身の内的な感覚(男性、女性、混合、中性、それ以外―すなわちジェンダーアイデンティティ)と一致していないという強く持続的な感覚が生じます。
(MSDマニュアル 家庭版 「性別違和と性転換症」2017年に最終更新)
※URL等は最後にまとめます。
他のサイトでも、基本的には「肉体の性別と性別の自認が一致しない」状態を指す言葉だとされています。
ただ、引用した上記の言葉では「自身の内的な感覚」と書かれていますが、日本のサイトだと「心の性別」と一致しないこと、と書かれていることも多いです。
Xジェンダーについて書いている『Xジェンダーって何? 日本における多様な性のあり方』(Label X編著、2016)では、「セクシャリティは両脚の間ではなく両耳の間(脳)にあるもの」とするアメリカの医師の言葉を引用しながら、「心の性」について「脳で感じる自己の性別のこと」と解釈していて、性別違和に関しては下記のように書いています。
「頭の中で考えや思いを巡らせる」のではなく「感覚として捉える」ことが性自認の本質でもあります。
いわゆる「自分の性別をそのように実感できているかどうか」です。
「頭では自分の体の性別を認識している。しかし、感覚ではそのように捉えることができない」という状態が性別違和です。(p.18−19)
私自身もこの「肉体の性別と性別の自認が一致しない状態」「自分の肉体の性別に対して、内的な感覚としての性別の認識に違和感がある」という意味で「性別違和」という言葉を使っています。
2.「Xジェンダー」自認の経緯
それからXジェンダーについても触れておきたく思います。
「Xジェンダー」は自認する性別の種類の名称で、男性・女性以外の性別を指す言葉の1つです。
「〜の1つ」というのがポイントで、他にもいわゆる「第三の性」を指す言葉はたくさんあります。
両性、中性、無性、不定性(これらをまとめてXジェンダーの定義とすることも多い)、ノンバイナリー、ジェンダーフルイド、ジェンダークィア(これも男女以外の総称としても使われる)……。
私は一番初めに出会った言葉が「Xジェンダー」で、その後敢えてそれ以外の言葉を選ぶことをしていないので、Xジェンダーという言葉を使い続けています。
(冒頭に書いた通り最近は「性別違和がある」という言い方をすることも多いのですが、性別はと聞かれたらセクシャリティに関する知識があって伝わるであろう相手にはXと答えることもある、それ以外の言葉を敢えて選ぶことはしていない、という感じです)
そもそもXジェンダーの概念を知って「これかもしれない」と思ったのは、大学のジェンダー論の授業で言葉に出会ってそんな言葉があるのかとしっくりきたことと、その授業で同時に「心の性」とは何か、という問いが出てきて、じゃあ自分の「心の性」は何だろうと考えたときに、答えが出ないと気付いたからです。
自分の肉体の性別が女性であることは明白で、そこは物理的に存在するものを基準に判断すればいいので迷う部分にはなりません。
でもじゃあ、「心の性」って何で判断すればいいんだ? と立ち止まったことで、確かに自分は自分を女性だと思いきれてない、これがXジェンダーということか……? と自認が少しずつ強くなっていきました。
『Xジェンダーって何? 日本における多様な性のあり方』では、
シスジェンダーの人々であろうと、性別違和を抱える人々であろうと「なぜ、自分の性別をそのように認識するのか」という明確な答えを誰も、ほとんど持ち合わせていないにも関わらず、シスジェンダーの人々は、それについて特に深く考えることなく、単純に自分の体の性別だけで自分の性別を判断しているために「心の性」というものが何か分からずにいるのです。(p.22−23)
と、上記のように言及していて、私がこの文章を読んだとき、シスジェンダーの場合、背景色と同じ色の図形がその上に重なっていても、その図形を認識できないような状態なのかな……というイメージが浮かびました。
でも私はそれで言うと多分、その図形が背景色に馴染んでいるわけではないと思う。その図形がどんな形なのか、具体的に何色なのかは分かってないけど……。とにかく、「心の性」の答えが分からないこの状態自体がXジェンダーであると判断できる理由になると考えています。
先ほど書いた通り「心の性」が「脳で感じる自己の性別のこと」だとしても、私は今でも、「心の性別は?」という問いに対する答えを持ってません。
なので敢えて「〜性」に当てはめるなら「無性」に近いとは思うのですが、「無性」だ、と言えるほど自分の自認は具体的な形をとっていません。だから無性でも両性でも不定性でもノンバイナリーでもジェンダーフルイドでもなく、「Xジェンダー」というただ男性でも女性でもないことを示す言葉を選んできたんだとも思います。
ただ、そうして具体的な言葉に落とし込めない性自認ですが、少なくとも「あなたは自分自身を女性だと思いますか」と聞かれたら、迷わずに頷くことはできないことは確かです。
舞台「キンキー・ブーツ」の台詞の中に“Ladies, Gentlemen... and Those Who Have Yet to Make Up Their Minds.”(日本語版では「そしてまだどちらか決めかねているあなた」)という言葉がありますが、私はどちらか決められないし、どちらでもないと思っている人、だと思います。
3.セクシャリティの言語化
続いて、「今は「好きになる性別が決まっていない」「性別違和がある」と動詞・形容詞的な説明の方がしっくりきているので、そういう言語化や説明をしている。」と冒頭で書いた感覚についても書き残しておきたいです。
「好きになる性別が決まっていない」「性別違和がある」という言葉を「パンセクシャル」(全性愛者。今はバイよりもこっちの方が嘘がないなと思っています)、「Xジェンダー」という言葉で置き換えることは可能ですし、セクシャリティを表す言葉が通じる人にセクシャリティを説明することがあれば伝わりやすさのためにパンセクでXジェンダーなんだと答えるかもしれません。
ただ、名詞で表すと、形容詞的な説明よりも強いアイデンティティであるように聞こえる気がしてしまう、というのが、自分を捉える言葉が変わっていった理由だと思ってます。
「私はXジェンダーである」と「私には性別違和がある」だったら、前者の方が、「私」の中でセクシャリティが占めるアイデンティティが強そうな気がする……。
別の言葉でも、例えば「私はゲーマーである」という名詞で表す言い方と「私はゲームをする」という動詞で示す言い方だと全然印象が変わると思います。前者は何というか、生き方みたいなものに大きく関与していそうというか……。後者の方は一時的な行動を定期的に行うんだろうな、というイメージです。
私にとっては普段暮らしている中でセクシャリティはそこまでアイデンティティとして強く感じるものではなくて、何かきっかけによって定期的に浮き上がってくるものです。
だから「Xジェンダーである」よりも「性別違和がある」の方がしっくりくるようになったのだと思います。
あとはXジェンダーというと「女性ではなくXジェンダー」という印象を受けるけど、前の章で書いた通り、私は少なくとも女性ではないと思うがじゃあ何が答えになるのかは分からない、という感じの自認なので、まあその答えの出なさを「Xジェンダー」と呼ぶこともあるのですが、単純に「一致しない」「違和感がある」という言葉通りの「性別違和」がよりシンプルに自分を表しているように感じます。
ちなみに前回noteを書いたのは2019年で2年前だったのですが、そのときは性的指向の方は「バイセクシャルかポリセクシャル(あるいはパセクシャル)」と書いていました。今の自認はパンセクシャルです。
そしてバイ自認に落ち着いていた理由を自分のnoteを読み返してなるほど! と思ったので、引用しておきます。
あとはバイとしてカミングアウトを繰り返してきたことも、基本的にはバイ自認で落ち着いている理由の1つなのだと思う。
ポリセクかもしれないしパンセクかもしれないけどバイかな、というところなので、カミングアウトする機会には、自分はバイなんだ、という言葉で伝えていた。
そうすると、相手の中で自分はバイだと認識されるわけだけど、自分をそう認識する人が増えると、あるいはそう認識してもらう機会が増えると、自分の自分に対する認識も、そう伝えた言葉で強められる気がする。
なるほど! となぜ思ったかというと、自分が異性愛者ではないとカミングアウトするとき、最近の私は「付き合っている人の性別が自分と同じなんだ」という言葉でカミングアウトしているからです(noteを書いた頃は付き合い始めて1年少しでした。今はもうすぐ3年です)。
そして自分がバイセクシャルなのかパンセクシャルなのかという、どの性別を恋愛対象とするかよりも、パートナーと付き合っていること、誰を愛するかということの方が、自分のアイデンティティとしては強い。全ての性を愛する者、というまでもなく、パートナーを愛する者、で済むというか。
元々デミロマンティック(強い信頼関係を前提として恋愛感情を持つセクシャリティ)ということもあってあんまり恋愛感情が豊か?な方でもないので、性的指向が強いアイデンティティになったことはあまりないのですが……。
バイではなくパンセクシャルだと思っているのはパートナーの性自認をちゃんと聞いたことがないので(というか私にとってパートナーの性自認は重要でないので)、パンセクシャルが一番嘘がないなと思うのと、自分と同じくらい中性的な雰囲気の人と一緒にいることが相対的に性差を感じることがなくてとても快適だと分かったので、やはり二元論前提のセクシャリティじゃなくてパンセクシャルが自分にとってはしっくりくるかも……と思ったからです。
とはいえパンセクシャル自認が先行してパートナーと付き合い始めたわけでもないし、「あらゆる性別が恋愛対象である」というより「好きになる人の性別が決まってない」という方が実際の感覚に近いです(複性愛者を表すポリセクシャルは、特定の性別いくつかを愛するセクシャリティと認識してるので自分は違うかな、と思ってます)。
そして「パンセクシャルである」というよりも「好きになる性別が決まっていない」という言葉そのままの方が「付き合ってる人の性別が同じ」という言葉と地続きな感じがするので、最近はこういう言葉で自認しているのだと思います。
ただなんかこう、好きになる性別が決まってないという言い方も、これから誰を好きになるか決まってないみたいに聞こえなくもないので、またそのうち変わるかもしれません……。パートナーが好き、で済むし済ませたいんだけど……。誰かに説明するときに理解してもらえそうな、かつ自分の感覚と矛盾のない言葉を自分の中に用意しておきたくて、今はそのための言葉がこんな感じ、というところです。
念のため書いておくと、セクシャリティのカテゴライズ自体を否定しているわけではありません。
世の中にはセクシャリティを表す言葉はたくさんあって(記事の最後に参考リンクを貼りました)、パンセクシャル、Xジェンダーという言葉以外にも、私はデミロマンティックだし、クワロマンティックの定義に共感できる部分があったりします。
いずれそういったカテゴライズの必要のない社会になることが理想だとは思っていますが、自分自身が「Xジェンダー」というカテゴリーを知って楽になった人間だし、自分が所属するカテゴリーがあることの安心感というか、迷子みたいな感覚にならずに済む人がいるのならそれだけで意味があると思うし、存在しないことにされないためにラベルを主張しなければいけないこともあると思っています。
時々Twitterとかで細分化されたセクシャリティに対して「こんなに細かく分ける必要ある?」みたいな意見を見かけることもあるけれど、その「普通」との差異が、そのセクシャリティを持つ人にとっては生きづらさに繋がることもあるくらい重要だということだから、「細かく分ける必要ある?」は、「自分は気にしない(偏見を持たない)」という気持ちから来ていたとしても、生きづらさや苦しさを軽視する言葉にも聞こえかねない……と勝手に複雑になったりします。もちろんそんなつもりではないのでしょうが。こんな文章を書いているくらいなので、自分が気にしすぎるタイプの人間であることも自覚はしていますが……。
4.性別違和・Xジェンダーを実感する場面
性別違和というのは私にとって普段何気なく暮らしている限りそこまで強いアイデンティティではない、のですが、ふとしたきっかけで痛烈に実感することがあります。
というわけで、その例(と、逆に特に気にならない例)を下に羅列してみようと思います。
・スカートとかドレスとかいかにも女性らしい格好をすることは「女装」の感覚で、自分にとっては異性装
・フォーマルな格好は男性の正装、女性の正装と性別によってはっきりマナーが分かれているので苦手
(スーツの職場では働きたくない)
・女子トイレを使うことには特に違和感がない
(身体は女性の作りをしているのはそれはそう、と思うから?)
・でも職場のバレンタインで女性陣の中にくくられることは苦痛
(職場のバレンタイン文化いらないという気持ちとは別に。ホワイトデーでもらうのも複雑。女性だからってだけで扱いが決まるのが嫌なんだと思う。)
・「〇〇期女子」みたいなLINEグループに入るにことはそこまで抵抗ない
(女子の友達が当然のように多いので、その一員であることに慣れてる?)
・女子会っていう名前の集まりに参加することは抵抗ないけど、自分が参加していいのか‥? みたいに思うことはある
(仲良しの友達の集まりが「女子会」と称されるのはまあ気にしないけど、例えば職場とかで女子会やるから〜、って感じで誘われても、バレンタインと同じくあんまり自分事に思えないかも)
・職場の飲み会でお酒つぐとかの若手の動きをしたときに「若い女子にやってもらって‥☺️」みたいな反応をされるのは自分が「若い女子」と思えないので苦手
(なのでずっと避けているようになってしまった。そもそもそういう昭和とか体育会っぽい雰囲気が苦手だけど)
・「彼氏とかいるの?」って聞かれると相手のことを(本当にいる可能性があると思って訊いてる……?)と思ってしまう、自分が誰かの「彼女」になり得る人間かと思うのか、みたいな気持ちで
(でも恋バナが苦手なので、「彼氏いる?」にはそのせいで無意識におののいているのかもしれない……。デミロマンティックでもあるせいか、誰もが恋愛感情を持つ前提で話が進むのが苦手)
・自分の肉体の女性性に対する嫌悪感がある
(第二次性徴はすごく嫌だったし、下着屋さんは今も苦手。自分の肉体の女性性を実感したくないので妊娠・出産はしたくない)
性別違和のことを考えるとき(このnoteを書いている今も)、自分自身の状態は果たして本当に「性別違和」と呼ばれるものなのか、ただ既成のジェンダー観に迎合できない信念の問題なのか確信が持てなくなることは時々あります。
ただ女性扱いを受けたときに女性扱いそのものに対する反発よりも(まあそれもあるにしても)、自分が女性として扱われること自体への違和感が強いことは確かで、自身の性別に対して違和感があるのかないのかと言われたらそれは間違いなく「ある」もので……。
私がスーツじゃなく好きな服を着ていたい理由には、もちろん好きな服を身に纏って仕事を乗り切りたいっていうときもあるけど、自分が認識している性別となるべく同じジェンダーを外見に示していたい、という気持ちが大きいです。
女性だと思われて何か言われたり女性扱いされるのは自分にとって苦痛や違和感が生じるから、女性らしい格好はしたくないし、なるべく「私」だと思われる中性的な格好をしていたい。1年前に転職をしたのですが、前職の職場は完全に私服でTシャツでもよかったくらいだったので、本当に好きな格好をしていました。それで「そのTシャツいいね」とか男性からでも女性からでも言われるのは、性別よりも先に「私」を認識されるということなので、そういう環境にいられると快適だなと感じます。
そういう快適さのもとで女性として認識されることを避けているつもりが、たまに女性扱いされるとびっくりしてしまって、決まり悪くなって、あとで落ち込むまでが大抵ワンセットだったりします……。
5.少なくとも“Everyone”には含まれている自分
さて、先日、ディズニーの入園アナウンスが「Ladies and Gentlemen, Boys and Girls」が「Hello Everyone」などに変わったということを知りました。
東京ディズニーランド・シー園内アナウンスを変更。「Ladies and Gentlemen, Boys and Girls」廃止へ(Huffington Post)
これは「Lady」が自分ごととしてしっくりこない、かつて「Girl」も自分に当てはめたくなかった私にとっては喜ばしいニュースで、だけど、だから、この記事のツイートのリプ欄には心が荒みました。
愛着や歴史のある文言が変わることが寂しいという気持ちを責めるつもりは全くないし、むしろ共感できると思います。でも変更の理由に対して「そんなこと」「細かすぎる」と軽視するような言葉が多かった。理解しづらいだろうとは思うけど、それにしてもそんな雑な言葉を使わなくてもよくないか? と気持ちが荒れたものです。
何でもマイノリティ基準になっていく、という嘆きも見受けられたけれど、Everyoneは文字通り、誰もを対象にする単語です。だから今回の変更は私からすると、きつい階段だけじゃなくてスロープも用意して誰もが通りやすい道にしようねとか、そういうのと同格のユニバーサルデザインなんだけど……とも思いました。
ところで私はバイセクシャルなんだっていうカミングアウトは結構してきた方だと思いますし、今は「付き合っている人がいる」「性別が同じなんだ」という言葉でカミングアウトすることも少なくないですが、性別違和がある、Xジェンダーである、ということをカミングアウトした機会は、性的指向のカミングアウトに比べると圧っっ倒的に少ないです。
完全に私の感覚ですが、性別違和のカミングアウトをしようと思うタイミングは、性的指向や同性パートナーがいることをカミングアウトしたくなるタイミングよりずっと少ないのです。
(性的指向の方だと例えば、恋バナを振られて「彼氏いるの?」「付き合ってる人います(嘘ではない)」の先で、異性を前提とされることに無理が生じてくると言いたくなります)
考えてみれば、性別違和をカミングアウトできるような相手はもう私を女性扱いするよりも「私」扱いしてくれるような友人になっているので、敢えてカミングアウトする必要がない場合がほとんどな気がします。パートナーの話とかをしていると「元々あんまり自分を女性だと思えてなくて」と触れることはあるのですが、Xジェンダーで、性別違和があって、という話し方で打ち明けることは少ないですし、性別違和の方だけを打ち明けることは、多分これまでしたことがないです。
性別違和をカミングアウトした機会で印象的な2回は両方職場でした。そのうち1回は、前職で採用サイト向けに若手社員の対談を依頼されたところ、偶然メンバーが全員女性だったためか対談後の記事確認でタイトルが「女性社員の対談」になっており、耐えかねて当初通り「若手社員」というタイトルにするか、「女性社員」としての対談にするのであれば自分が参加していなかったことにしてほしいと訴えたときでした。
(もし初めから「女性社員の〜」だったら断っていました、と伝えて、結果としては「若手社員の〜」に戻してもらえました。)
このとき対応してもらえたことには感謝して安心したのですが、(性別違和の人がいるかも……)みたいな可能性を事前に懸念しておくことって相当難しいだろうなとも思います。
そして私からしても、こういう可能性があるから性別違和であることをカミングアウトしておいた方がいいかも……と何かしらの可能性を想定しておくのは難しいし、あまり自分自身のことを知られていない状態でカミングアウトすることは、相手にとって私の印象が「性別違和の人」になってしまうだろうと思うので気が進むものではありません。
伝えておくことのメリットと、分かってもらえないかもという心配や説明するときの労力を天秤にかけると、どうしても後者の方に傾きます。(カミングアウトした2回のうちもう1回は今の職場で、産業カウンセラーと人事の1人には伝えてある状態なので、何かあったら相談できる人がいる状態ではあるのですが、きっかけは事後対応的なことでした)
何か性別違和でしんどくなることが起きたらちゃんと伝えたいと思いつつ、その心構えからしても、完全に事後対応に意識が向いていることは確かです。
前章に挙げた例を振り返っても、キツくなるケースは職場の想定が多かったことに気付きました。
ふと思ったんですが、2年前のnoteとか自己紹介欄ではシスジェンダーとXジェンダーを揺らぐっていう書き方をしてたけど今はシスジェンダーではないかなって思っていて、それって社会人歴が2年分長くなって(2年前は社会人歴1年半弱、今は3年ちょっと)、その分性別違和を実感する場面に出会ってきたからかもしれません……。
何というか、公私の中で「私」に近いコミュニティでは多分性別とかを通り越してもっと具体的な私自身の持つ要素の存在感が大きいから気にする機会は少なくて、より「公」に近いコミュニティの中では分かりやすいカテゴリ=性別によって「女性」扱いを受けることがままあって、だから結果としてそういう例が多かったんだと思います。
でももっと抽象的に「人間」として対面するところから始めてくれたらいいのに、と思っていて、性別違和を抱える人でなくてもその方が不本意な気持ちになることは少ないんじゃないかなあとも思うところです。
話を一気に戻しますが、だから、私にとっては「Everyone」が嬉しくてありがたいと感じるのです。
マイノリティであることを気にしなくて済む表現だから。
性別違和をカミングアウトすることが少なかった理由には、「性別違和だからこうしてほしい」みたいなものが思いつかなかったというのもあるのですが、「性別違和の人として扱ってほしい」というよりは、「性別によって扱いを分けたりすることをやめてほしい」というのが望むことなんだと思います。
でもこれは性別違和だけの問題ではない気がする……。例えばジェンダーロール(性役割)が全然ない社会だったら私は性別違和を自認することもなかったんだろうか、とかは時折考えることがあります。特に自分の違和感が既成のジェンダー観に対する反発なのか、性自認の問題なのか分からなくなりそうになったときとかに。
それから例えば女性社員の座談会的なものが必要とされるのは分かるし、ただそこに自分がいるのは私は女性じゃないから違うってことで、「性別によって扱いを分けることをやめてほしい」の内訳も掘り下げようとすると難しい……(でも女性社員の座談会が必要とされるのは、性別によって扱いが分かれている現実があるからだと思うし……だって男性社員の座談会はあんまり聞かない)。
まあ、色々答えの出ない部分はありますが、私の性別違和はもう数年以上は自覚が続いているもので、ジェンダーロールが存在する現実に生きているので、これからも自分が抱える性別違和となるべく上手く付き合う方法、なるべく違和感を覚えなくて済む生き方を模索していこうと思います。
こうして言語化すること、それをインターネット上に公開することも、その模索の一端であるつもりです。
*
この文章の目的は「自分の性別違和について、どういうときに違和感を覚えるのか、どういう環境が心地いいのか、文章にして整理すること」でした。
改めて性別違和とXジェンダーってどういう定義の言葉とされてるんだっけ? というのを確認して、Xジェンダーという言葉より性別違和という言葉をそのまま使うことが多くなった理由を整理して、実際に違和感でしんどくなるときを挙げてみて、「Everyone」に内包されている限りはその違和感を覚える必要がないんだなということを書き出して……。
何か解決策みたいなものが見つかったわけではないですが、自分で思っていたより結構整理された気がします。
私は何か不本意なことが起きたときになぜ自分はこれを不本意だと感じるのかと考え続けてしまうタイプなので、先にいくらか整理しておくというのは生きやすさに繋がる作業でした。
自分自身のSOGIに関するnoteを書いたのは2度目でしたが、前とは内訳は変わっていなくても自分を表す言葉は変わっていたりして、でもその変化にも納得があって書いておいてよかったなと思ったので、このnoteもいつか日が経ってから読み返してみたいと思います。
最後に、冒頭の繰り返しになりますが、今回書いた文章は全て私個人の感覚であり、「性別違和」「Xジェンダー」とはこういうもの、という捉え方ではなくて、「性別違和」を感じている人、「Xジェンダー」を自認している人にはこういう人もいるんだ、と捉えていただければと思います。(もちろんパンセクシャルとか性的指向に関する部分についても同様です。)
もっと知りたいと思った方は参考文献・URLを参照してみてください。
それでは、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
参考文献・URL
『Xジェンダーって何? 日本における多様な性のあり方』(2016)Label X編著、緑風出版
└Xジェンダー、性別違和に関する入門書として書かれており、分かりやすいです。
『百合のリアル 増補版』(2017)牧村朝子、小学館
└今回引用はしていませんが、セクシャリティ全般に関して、漫画や対話形式を交えて説明されています。
電子書籍もあるのでおすすめです。
デミロマンティックとは?【デミセクシャルとの違い】|JobRainbow MAGAZINE
└後半で他の〇〇ロマンティックについても紹介しています。
https://jobrainbow.jp/magazine/demiromantic
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