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世界で一番自分と似ている人に映る、多様性という希望

 私には性別違和があり、その違和感を含めてほとんど同じ性別である、一番の友達でありパートナーであるひとがいる。

 私にとって一番大切で特別で、多分、世界で一番、自分に似ているひとだと思う。
 だけど絶対に、当たり前に、自分とは異なるひとりの人間だ。共通点がたくさんあるからこそ、自分と異なる点を一番挙げられるひとでもある。

 友達付き合いが始まってから5年弱、付き合っている関係にもなってからは3年と少し経った。
 私がこの期間で気付いたことは、ものすごく自分に似ていると感じる相手だとしても、こんなにも自分との差異を感じるものなのか、ということがひとつ。
 それから自分の中にも多様な要素があるのだということがひとつ。

 大きく言ってしまうと、人間は多様である、ということと、自分は多様である、ということだ。
 そして私は、その多様性を希望だと思っている。

「世界で一番自分に似ている」とは

 世界で一番自分に似ている、というのはどういうことか。
 結論から言うと、自分と一番似た道のりを辿ってきたという意味でそう思っている。

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 出会いから遡ってみると、私たちは元々Twitterの相互フォロワーだったのだけど、同い年であること、それから高校のときにハンドボール部だったことが分かっていて、直接会う前から既に親近感を持っていた(ハンドボールはマイナーなので……)。
 初めて直接会ったのは声優さんのイベントだったけれど、第一印象は、自分と似てる、だった。中性的でショートカットでメンズライクな服を着ていて、バスケ部かバレー部だったでしょって言われるタイプだ。
 それから、東京の大学生でもしかしたらかなり近そうだとお互い察せられていたのを確認してみたら、ビンゴもいいところで、同じ大学・同じキャンパスに通っていた(!)。
 既に向こうが大学四年生、私が三年と四年の間で休学していた冬のことだったので、もう同じ授業を受けようとかそういうことはできなかったけれど、実際に同じ授業は受けていたことがあったようだし、間違いなく同じキャンパスで、少なくとも三年間を過ごしていたことになる。

 さて、もっと話してみたいねということで後日ご飯に行ったら、出身は別の県なのだけど、中高は同じ県に通っていたことが分かり、学校名を言ってみたら難なく伝わってしまった。うちは強豪になりかけの頃だったのだけど、「研究で試合見てたよ!」と言われて嬉し恥ずかしかった。
 向こうの出身校が従姉が通っていた高校だったから(従姉は生徒会長で二つ上なので、パートナーはきっと何かしらで目にしたことがあるのだろう……)、母親に「こないだイベントで会ったTwitterの友達がそこの高校のハンド部だったんだって!」という話をしたら「対戦してたと思うけどなあ」と言われて、ほぼ毎試合撮ってくれていた過去の試合のDVDを探したら、本当に対戦経験があったのだった……。二人とも忘れていたけど……。
 「背番号、7番だった……?」というLINEをしたのを多分一生忘れないと思う。
 試合終了後、整列して礼のあとに列ごと全員ですれ違うようなハイタッチで終わる流れだったので、私たちは高校二年生のときにハイタッチしたことがあることになるし、試合会場ですれ違ったことは何度もあるはずだ。
 別に今付き合っているからとか関係なく、私にとって一番印象的な出会いがパートナーとの出会いである。

 というわけで、じゃあ高1から数えたら6年間くらい同じ場所にいたことがあったんだね、と話していたのだけど、ある日ふと、さらに遡ることができることが判明した。
 2人とも中学は陸上部で、専門競技は違うとはいえ、ハンドボールと同様、同じ大会会場にいたはずだったのだ。つまりきっと12歳からすれ違っていたということで、今年で私たちは27歳になるので、人生の半分以上、度々同じ空間で時間を過ごしていたことになる。
 もう大体何でも話が通じるし、自分自身が行きたい場所のどこに誘っても大概二人とも楽しめるので最強の友達である。
(そう、普段過ごしている分には一番仲良しの最強の友達、みたいな気持ちでいることが多いので、代名詞としてパートナー、と言っていることに少し違和感をおぼえている……。)

 ちなみにその前はというと小学生の頃は私はドッジボールチームに、パートナーはサッカーチームに所属していて、男子だらけの中でクラブチームに所属していたというのも共通点になる。
 結構面白かったのは、大学の第二志望が同じだったことだ。枝分かれの中で選ばなかった方まで同じだったとは……。

 Twitterの相互フォロワーだったのは趣味が一緒だったからだし、まあ、そんな調子で出会う前から大体同じところを通ってきていて、辿ってきた道のりがここまで同じだった人はいないだろうと思っているので、世界で一番自分に似ていると思っている。

共通点と同じだけ違うところも見つかる

 細かい共通点を洗い出したらキリがなくて、それはきっとどんな他人に対しても、探そうと思えばいくらでも共通点は探しだせるのだと思う。

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 私たちの細かい共通点を敢えて挙げてみる。
 まず身長・体重がほぼ同じで、服の系統も一緒だから外見の印象はとても似ている。同じタイミングでなぜかいきなり痩せてしまった時期もあった。少食なのも共通点で、お腹が空くと分かりやすく元気がなくなってしょんぼりするのも共通点かもしれない(でもこれはヒトの共通点かもしれない)。
 二人ともトマトが嫌いで、料理は無心で作業できるから結構好きで、カレーとか親子丼とかオムライスが好きで、とりあえずスープを作り置きして野菜を摂ろうとしていて、とか。お風呂上がりのストレッチが日課で、身体がだるいと筋トレして、みたいな、体質? 生活? の感覚にも共通点がある。
 えーとそれから、さっき軽く触れたけれど12月生まれというのも同じ。あ、2人とも絶叫とかホラーとか虫が苦手。
 2人きょうだい・3人きょうだいの違いはあれど、2人とも一番上の長女だ。
 趣味が同じ、というのがどんな感じかというと、2人とも声優の南條愛乃さんが好きで、同じように何人かの女性声優さんやグループも好きで、一緒にライブに行く仲間だ。漫画の趣味もそこそこ重なっており、ヒロアカ展は一緒に行ったし、映画も一緒に行った。博物館や美術館の展示に行くのも結構好きだ。あ、漫画で言うと「違国日記」とか「北北西に曇と行け」とかそういった人間ドラマも好きだし、スポーツ漫画も好きで……、まあ、ちょっと挙げきれないので割愛するけれど……。
 あとは小学校のときにあさのあつこさんの作品を読んでたとか、宮部みゆきさんの「ブレイブ・ストーリー」が好きだったとか、児童書文学は一緒に懐かしめるものがいくつかある。小説だと今は私が中村航さんを勧めたり、旅エッセイを貸してもらったり、「宝石商リチャード氏の謎鑑定」シリーズの辻村七子さんの作品に一緒にハマったりしている。

 だけど、こうして具体的な共通点が見つかっていくと、同時に違うところも見つかっていくものである。

 私は食器洗いを少し溜めてしまうタイプだけど向こうはすぐに洗いたいタイプだし(これが一番初めに出てくるってどうなんだ)、家事の細かい手順の違いはいちいち挙げないけれど、相手の家で過ごすときはお互い聞きながら進めることが多い(相手のやり方でも気にしないものも多いけど)。
 ハンドボールをやっていたという共通点はあっても得意なスポーツは結構違うし、同じ大学には進んでいるけれど勉強の仕方もかなり違う(指定校推薦と一般受験という違いに表れている)。
 今だと職種がまるで違うから、生活の感覚は似ていても実際の生活リズムは全然違う。仕事のことで言うと、私はやりたいことを仕事にしているタイプではないけれど、パートナーはやりたいことを仕事にしているタイプで、全く異なるキャリア形成をしている。
 児童文学は結構かぶっていそうだったけど、音楽のことで言うと、中高時代によく聴いたアーティストが私は邦ロックの男性ボーカルばかり、向こうはJ–POPとか洋楽の女性アーティストが多めで、全然被っていなかった。
 それから、当たり前に得意なことが違っていて、お金の精算とか細かい計算は私が担当することが多くて、店員さんに声かけて確認してみるとかは向こうにそっと任せることが多い。
 私は文章とか言葉で表現する方が得意だけど、向こうは映像とか写真とか、非言語系の表現が得意なひとだ(この記事に載せている写真はヘッダー画像以外は私が撮ったものだけど、カメラを買うときは一緒に選んでもらった)。
 私の方が言語化して納得しようとせずにはいられないことを、向こうは言語化せずにそのまま大切にできているように見えていいなと思うことがあって、でも逆に言葉にできるのがすごいとか、言葉にしてくれたことがありがたかったと言われることもある。
 逆に色んな不一致ですれ違ったり気まずくなったり喧嘩したりすることも、もちろんある。

 同じところも違うところもきっと自分が持つ要素の数だけあって、同じ道を辿ってきて同じものに惹かれて同じものを大切にしているから、このひととなら一緒に生きていけると感じるし、自分とは違う眼差しを持っているから、このひとと一緒に生きていきたい、と感じる。

 そしてこのひととなら一緒に生きてゆける、と思えるたくさんの共通点のうちのひとつに、冒頭で書いた「私には性別違和があり、その違和感を含めてほとんど同じ性別である、一番の友達でありパートナーであるひとがいる。」ということも挙げられるのだ。

誰も自分とは同じではないという多様性・可能性が希望

 世界で一番自分と似ている人でも自分と違う点は無限に見つかるのだから、誰も同じではない、絶対に自分と異なる一人の人間である、ということが、当たり前だけど、パートナーに出会って、特に付き合い始めてから気付いたことのひとつだった。
 そしてその差異が、私(たち)にとってすごく大切なものだということも。

 得意なものが違うから分担してお互い助かることがあって、目を留めるものが違うからおすすめの作品を教え合うことができて、そうやって自分にはないものを持っているからこそ、相手を尊重できるし憧れるし一緒にいて楽しくて、好きだと思える。
 一方で、自分と同じ価値観を持っているから、「お互い助かる」という感覚を共有できて、おすすめされた作品を同じくらい楽しむことができて、一緒にいて快適で幸せだと思うのも事実だ。

 そういうことを考えていたら、人間がそもそも多様だから、同じものを持った人との出会いに幸せを感じられるのだし、自分の中に多様な要素があるから、ある他人に対して共通点と違う点を同時に持つことができるのだと、気付くことができた。

 だから私は、多様性は、――というか、人間が個体ごとに、それから一個体の中に多様性を与えられた生き物であることが――、希望であると思う。
 私はパートナーとの出会いで、自分が選んできたものを選んできてよかったなと思えて、こういう出会いがあるならこの世界もいいものだな、と希望を持てたようなところがあるのだけど、それはきっと、人間が多様性を持つ生き物じゃなかったら持ち得なかった希望だった。

 昨今「多様性」という言葉は様々な場面で見かけるが、シーンによってはこの言葉を聞くときに、マイノリティである「その他」の人々にも配慮しよう、みたいなニュアンスを感じてモヤモヤすることがある。
 多様性というのはマイノリティのことを語るための言葉ではなく、誰もが当事者である言葉なのに、と思うからだ。

 例えばマイノリティ当事者が書いているこの記事について、私がもし性別違和を感じておらず、異性愛者で、パートナーとも性別が違っていて、数々の共通点のうち「性別が同じ」という1つの共通点が挙げられていなかったら……、この記事は多様性に関する記事ではなくなるのだろうか。
 私はそう思わない。ベースは別の人間同士が出会ったときに感じた多様性の話として書いたつもりだ。
 しばしば語られる「多様性」の分かりやすい例になりそうな、「同性同士で付き合っている」という要素は、私にとってはあくまでも、一緒でよかったと思える共通点のうちの一つであるという感覚だ。(同性であること自体は、部活で対戦経験があることの前提とかになるので存在感は大きいのだけど。)

(もちろんというか社会制度でカバーされることを強く望んでいるのも事実なので、「多様性」というものがどういう扱われ方であれ、同性婚だとかLGBT法案だとか、マイノリティに関する制度化が注目されることは望ましいことではあるとは思っている……。
 ただ「その他」を切り分けて別に何かを用意するのではなくて、全体の中に多様性が包括されている、という状態であってほしい、と私は思うので、同性婚の法制化に関する団体、MARRIAGE  FOR ALL JAPANが「結婚の自由をすべての人に」と謳っていることはとても頷ける。
 全体の流れからは少し逸れるけど、書きたかったので補足。)

 私は人間の多様性を希望だと感じているし、そう思っていたい。
 この希望に気付けたきっかけであるパートナーは特別な存在ではあるけれど、別にパートナーとの関係性に限ったことではなく、自分と共通点があるから一緒にいて心地よく、自分とは違うところがいいなと思う友人や知り合いはたくさんいる。
 当たり前だけど、その全部が「一人では気付けなかったこと」で、私自身がこの世界を希望を持って生きていくための術として、これからも大切にしたいことだ。

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