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#43 眞弓さんといっしょ!vol.2 「”寄り添う”という言葉について考えてみた。」

共同管理人のれなです。
今宵も「眞弓さんといっしょ」へようこそ!

秘密結社アッと♡ストーマ”広報部長”の眞弓さんは、おととし大腸がんでオストメイトに。その治療に挑む中で始まったこちらの連載では、尽きることない、なんなら時には少々脱線気味の内容をシェアします。(前回の内容はコチラ

2回目の今回、お伝えするのは、5月6日のおしゃべりです。連休総仕上げ!みたいなこの日は、初回のnoteの仕上げを兼ねて、昼下がりにオンラインで集合しました。

眞弓さんとのおしゃべりは毎回大爆笑なのだ!

ちなみにこちらの連載、眞弓さんのおしゃべりをそのまま書き起こし、意図が掴みづらいかなぁと思った部分だけ、後でご本人に説明してもらい最低限加筆するスタイルでお届けしています。

みなさま、味わい深い眞弓節をどうぞ存分にお楽しみください。

では、いっきま~す!

Q えっと。きょうは何の話をしよう。そうだ!眞弓さん、保健師として自分は一生懸命やってるって思ってたけど、今の立場になってみたときに、なんか違ったかもしれないみたいなことを前に話してくれたじゃない?

眞弓)覚えてます、なんかうん。なんだろうな、いっぱいあるからな笑、なんだろう?

この日聴いてみようと思いたったのは「保健師として活躍していた眞弓さんが、患者の立場になって気づいたこと」。以前、眞弓さんがぽろっと漏らしたことがあり、気になっていたのです。

思い当たることを、あれかな、これかなと逡巡していた眞弓さん。突然、こんな問いかけをしてきました。

いや、れなさんね、「寄り添う」ってどんな風に思う?

ん!?「寄り添う」!?


眞弓さん、いきなり、私の人間性を試すような質問で飛ばしてきました汗。

人と向き合う仕事において「寄り添う」という考え方は”スピリット”として大事なこと。本業のメディアの仕事でこの言葉を使う機会も少なくありません。一方で、いざ使おうとするとどこか「おしつけがましさ」のようなものを感じて躊躇してしまう表現でもありました。

れな)つかず離れずみたいな距離感がすごく難しそう、というのがまず一つあるのと。あと、きつい時ほど一人になりたいとかもあるわけで・・やっぱり自分の人生は最終的には自分ひとりのものだから、誰かに「寄りそう」って言われた時に私は若干の抵抗がある。「寄り添いたい」と思ってくれる気持ちは嬉しいけど。
眞弓)(くい気味に)それって絶対ひとによって違うよね
れな)(くい気味に)う、うん、違うと思う。
眞弓)毎日のように大丈夫?大丈夫?ってね、言われるのが好きな人もいるでしょう。かまってくれないとすごく嫌な人とかね。不安になっちゃう人とかね。そういうのってどこで分かるんだろうって。

漠然とこの言葉に抵抗を感じていた私に対して、眞弓さんはまず、そもそも「寄りそう」という”何か”に求めるものは人によって違うのではないかという疑問を投げかけてきました。

というのも・・

寄り添う介護、一人一人に寄り添う、命に寄り添う、さらには寄り添いロボットまで。”寄り添う”という言葉は、これまでも今も(そしてきっとこれからも)世の中にあふれている。

けれど、患者に接する「保健師」の立場から、「患者」の立場に自分自身がなって「あちこちであたり前のように使われている”寄り添う”という言葉を使っていいのは、本当はどういうときなんだろう」と以前にも増して強く考えるようになったというのです。

眞弓さんは、20代のころから市役所で保健師として働く中で「寄り添う」という言葉について感じてきたことを一つ一つ、話してくれ始めました。

札幌で保健師として活躍してきた眞弓さん(27歳のころ)

眞弓)うんと。市民の人たちにしてみても、役場から人が来るっていうことでね。「役所の人ってなんか偉い人」みたいなのが、どっかにあるわけよ。それをフラットな形にして。気持ちを引き出して行くっていうのがね。そこに難しさっていうのがすごいあるんだ。

「これ本音?」って思うんだよね。

だからね、安易にね。寄り添っていう言葉をね。私、あんまり使うの嫌なんだよね。でもどこにでも”寄り添う”って出てくるから苦笑。
ちなみに最近では介護を受ける方の側から、「あなたはどうやって私に寄り添ってくれるんですか」って聴かれることもあるんだけどね。

「市役所から来た人」というだけでも相手のハードルはぐっと上がり、本音を聞くことさえままならない。にも関わらず、そもそもだれかに「寄り添う」ことなんて本当にできるのか。その葛藤は、眞弓さんが、長年公務員として地域の人々に”寄り添う”理想の形を追いかけ、試行錯誤してきたことを感じさせました。

そして話題は、当時眞弓さんたち保健師さんが担当していた「家庭訪問」の話に。

眞弓)今だいぶ減ったと思うけど、あの、家の中でね。トイレまで行けないから豆腐の容器にウンチして窓から捨てたりとかね。そういう人のところに訪問とかいっぱいあったよ。階段おりないとトイレがないのね。だからあの焼酎の大○郎みたいな瓶ね、おしっこをちょうど入るぐらいの大きさだからそうだからそこに溜めてるわけ。それを窓からぶら下げて。近所から苦情がきたり。猫もいっぱい飼ってるから、家の中に猫のウンチとかもある。

れな)家の中にですか。

眞弓)うん。でもね、そこに土足で入るわけにいかないから、素足にビニールを履くわけ。その上に捨ててもいい靴下を一枚はいて靴を脱いで上がるっていうね。しっとりするわけなんだよね。

れな)え~・・・><

眞弓)いやー、そういうところもいっぱいあるよ。独り暮らしの方を見てね。布団ももう、万年床みたいになってて、新聞をこう重ねて重ねて重ねて人型になってる方とかね。結核の人のお宅にも訪問したよ。

れな)えっ!?結核の方も訪問先にいるんですか!?

眞弓)いたよ、いた。私その時に妊娠してたんだよ。

れな)えぇぇぇぇ!???
それって断れなかったんですか?

眞弓)断れないのか、っていうか本人が行くっていうんだから笑。行かなきゃいけないよね。BCGを打っていたし感染対策もしっかりしていたから大丈夫だろうっていうのもあったし。

眞弓さんがどんな状況でも逃げだすことなく、「寄り添う」人であろうとしてきたであろうそのエピソードは、人間や動物の汚物に囲まれ、綺麗事では全く語れないもの。でも決してだれかに強制されたのではなく「必要としてくれる人がいるのであれば、どんな場所にでも行って、話をして、必要なケアにつなげていく」ことが自分の仕事だと考えてきたのだそう。

「必要とされるところならどこにだってかけつける」という思いで働いていた

おしゃべりの後半、眞弓さんは、「寄り添う」という行為について考えを深めるきっかけになる、あるエピソードを話してくれました。

眞弓)40年近く前に中央区に勤務した時にね、そこのね。保健師さんも所長さんも、職員がみんなね。やくざとかだれにもでね、優しいの。”ナイター検診”ってやったんだよ?無料レントゲン車走らせて。

そこに来る糖尿病の人が、甘いもの好きでね。もし血糖値上がりすぎて倒れたところでだれかが車で轢いてしまったら轢いた人に迷惑かかるでしょう。だからね、自分も好きなことをやって相手にも迷惑かけてもいいように「レディーボーデン一箱食べてもいいからここにちゃんとね。自分の連絡先と、迷惑かけた場合は自分の責任ですって一筆書こうよ」ってメモ渡して笑。もちろん、それくらいの覚悟でねってことをいってたんだと思うけど。

れな)一見破天荒のようですが、考えようによっては一つの知恵を出しているというというか?その人が実現したい形の人生を具体的にイメージして、コミュニケーションをとっている感じがしますね。

眞弓)うん、そういう意味で言うと、知恵をあげてんのかな?うん、選択するのは自分なのさ。結局は。だけど、選択する方法論はいっぱい授けるわけ。そういう先輩や所長がずっと、そこに10年ぐらいいたんだよね。だからそんな1日、2日でなんかその人のことが分かりましたなんて私は言えないと思って。役所ってほら、3年ぐらいで異動になるじゃない。ちょうど関係性ができてくる時に異動すんのがね。すごい辛かったっていうのがあった。3年目でやっとなんか本心がわかるみたいな。一朝一夕ではいかないの。

眞弓さんが長年経験してきた「寄り添う」現場のすごみと覚悟!何年という自分の時間を相手と共有して「寄り添おう」とする現場の時間軸に私は圧倒的にうちのめされ。

耳ざわりがよくて優しげでいながら、時に押しつけがましくもなりかねないなんて思っていた「寄り添う」という言葉の正体、眞弓さんの中の定義をちゃんと聴いてみたくなりました。

Q じゃぁ、眞弓さん。眞弓さんが今考える、理想の「寄り添う」って結局どんなことなんだろう?

眞弓)そうだね、今と昔は私の中でもその内容が違って。当時は「優しいこと」とか、「なんかすぐあったら相手のところに行ってあげる」とかってことしか思いつかなかったけど、今は、その人の生活を生まれた時から今の生活まで全部知って、その上で自分が大事にしたいこととか、幸せだと思うことをこの人に言いたいと思ってもらえる、お互いに話したいっていう関係になることが「寄り添う」の出発かなって思ってる。そこから先はこれからずっと考えていかないといけないと思うんだよね。

「大事にしたいこと、幸せだと思うことをこの人に話したいと思ってもらえる関係が出発点」

「寄り添うという行為にはコレという定義があるのではない。出発点があるだけだ」

眞弓さんから返ってきたのは、そんな答えのような答えではないような、でも実はもっとも正解に近いような気がする、ちょっと意外な「寄り添う」の定義でした。

今、どこかに「寄り添う」という行為を必要としている人がいるとすれば、「あなたの欲しい”寄り添う”はこれでしょ」と一方的に他人からプッシュされるのではそのニーズが満たされることはきっと難しくて。

大切なのは、これからどんな風に1分1秒を生きていこうか、お互いに気づいたらいつのまにか話しているような関係、「今からお茶でおやつにする?それともコーヒーにしよっか?」みたいなやりとりも含めて、あたかも息をするように、ごくごく自然に対話をしながら本人が望む選択をして、一緒に次の時間を作っていけるような関係性なのかもしれない。

そういえば、前に眞弓さん、「訪問介護にきてくれる若い人の中に、いつも自然で、なんでも話せちゃう子がいるんだ、とにかく自然なの。こういうのって年齢や歴じゃないんだよね」って話していたなぁ・・・なんてぼんやり思いだしながら、そんな思いに至りました。

ところで、「保健師の眞弓さんが患者になって気づいたこと」。

ご本人によると、「まだまだ山ほどある!」そうなので、また別の機会にたっぷり聞きますね笑。きょうはここまで。おやすみなさい。

※記事の内容は、執筆者個人のものであり、所属する組織や団体のものではありません。

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