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#52 眞弓さんといっしょ!④「告知」の話を始めたら・・・(前編)

こんばんは。大腸がんの治療のためオストメイトになった眞弓さんがみんなに伝えたいことをおしゃべりする「眞弓さんといっしょ!」前回は抗がん剤のお話をしましたが、4回目の今回は・・・「もうね、話すこと決めてるんだ!」という眞弓さんの提案で8月某日、「病名告知は患者家族にとって有効か」というテーマで告知について話し始めました。

が、気づけば、いつものように脱線、最後は真夏の夜にピッタリの”あの話”に・・・・超大作になる予感しかないので、前編後編にわけてお届けします。

眞弓さん、今までより強い抗がん剤治療にチャレンジしながら原稿チェックしてくれています


眞弓さんは、単刀直入にこれまで見聞きしてきた、また自身も経験した「告知」について話してくれ始めました。

眞弓)今、何科の外来とかでもその癌の疑いがある人の場合はね、シート書かされて。診断を受けた場合に「告知は誰にしたいですか?いいですか?」そういうね、アンケート用紙が配られて、それに基づいてするところはあるんだけど。もうそんなの聞かないで、いきなりもう告知に移って、で、それが診断の告知だけじゃなくて余命の告知もって時もあるの。何も治療しなければ、あのステージが決まってるのでね、うん、ステージ1の場合は余命何もしなければ何年っていう風に。

れな)うんうん

眞弓)治療を始めた場合は、余命は変わっていくわけで、それには個人差があるし。うん、病態もあるし、ガンの部分のその広がりにもよるし、「それはこれからですよ。だけど最低今このステージ。」っていう段階だよね。でも「何もしなければ余命6年ですよ」って言われたら、6年、6年ってその数字だけ入ってきたりね。6年という数字が自分の事だと受け止めていく人もいるよね・・・。

れな)余命って統計的なもの?なのでしょうけど、世の中の記事とか読んでいてもすごいポジティブって言うのかな、捉える人がいれば、当然そうできない人もいるわけじゃないですか。

眞弓)そうだよね、うん。

れな)告知のあり方によってもしかしてその後の治療や人生が変わってくる部分もあるのでしょうか。それこそまゆみさんは一番最初にその「告知」的なことを受けてから、その”余命”的な数字を、ずっとのばし続けてこられていますよね?

眞弓)そうだね、私の場合、一番最初の「余命」って言われたのが妊娠に伴う血液検査をしたときで。大学病院で受けた、MDSっていう骨髄異形成症候群。ものすごいまだ若かったんですよね。確かね、あの時は37歳ですよね。「予後不良の不応性貧血で治療をしなければ、生存年数は約1年」と説明されたの。
この病気の治療は「造血幹細胞移植」がメインでその他の治療は化学療法や放射線によるもの。でも妊娠中は積極的治療ができないから、胸椎、骨髄穿刺による検査と対処療法の輸血、入退院を繰り返して、様子を見ながら仕事を継続していたのね。

実は眞弓さん、37歳のころ、しかも妊娠中に、人生で初めて「余命」を”宣告”されていたといいます。診断をうけた、”骨髄異形成症候群”は、血液細胞のもとになる造血幹細胞に異常が起き、正常な血液細胞がつくられなくなる病気。医師から告げられたのは、治療をしなければ「1年」という思いもかけない”余命”でした。

れな)妊娠というタイミングでまさか想像もしていなかっただろう話ですよね。眞弓さんはどんな風にその医師の話を聞いたんですか。
眞弓)予後や治療について受け止める余裕はなく、「はいはい」って上の空で聞いていた気がする。

胎児が2,000gになったら、帝王切開で出産し、治療するという方針を決定。妊娠期間中、眞弓さんは、とにかく2,000gまで子供を育てる事を目標にしましたが、管理入院期間に患者が次々他界していくのを見て恐怖でいっぱいだったそう。自分の命、子供の命。当事者でないと想像できない、とんでもない不安との闘いだったと思います。

結局、1,000gになった頃、眞弓さんは破水し、局所麻酔で出産することになります。多くの医師や看護師、おびただしい数の機器・・、第1子目とあまりに違う大掛かりな光景に驚いたそう。そして出産後に意外なことがわかります。

眞弓)余命一年と言われたMDSが出産後に改善しているといわれたの。妙な安堵感でどんな精神状態だったのか思い出せない位。それでも、長男を残して自分だけ退院する不安と、小学校に入学する長女の準備、自分の仕事復帰など考える事、やらねばいけない事満載で、余命のことより目の前の感情に対応するので手一杯な毎日だったよね。

育児休暇中に、MDSの経過観察のため大学病院に数回通いますが、赤血球の異形傾向も減少し、「治療もいらない状態」といわれるまでに。市役所にも通常業務に復帰することができました。そして47歳のとき、地域の保健福祉を充実させるため、役所を退職、新たな事業の立ち上げに奔走します。ところが、その2年後のことでした。

眞弓)そう。眩暈や立ちくらみがあって。MDS再発を心配してまた大学病院を受診したんだけど、前回の受診から7年経過しているので、初診扱いになって受診の日程が合わず、、、そのうち、症状は軽減してしまったのね。しばらくして丁度胃がん検診が近医で受けられる事を知って、受診すると要精密検査となって指定医を受診することに。

そこで、スキルス性胃癌で余命3か月の宣告。キタライフ(眞弓さんの会社)を立ち上げたあとだから49歳のときね。医師からは「治療の余地がないので往診してくれる家庭医を探すように」と指導を受けて在宅療養することになったのね。このとき余命は「だいたい3ヶ月」って言われたから、もう全然ね。納得いかないまま。病気の自覚もないし。

れな)病気の自覚はなかったんだ・・・

真弓)いや、確かにその画像上のね。「ここがこうただれて」どうのこうのって説明はあるからね。「どこかに浸潤してるんですか?」とかっていろいろ聞くんだけど、でも、「データすごくこういうふうに出てて、もう取り切れない。」とかって、がん、がん言われてね。それで「もうここでは何もできない。紹介する病院も特にない。」って投げられるんだから・・・。当時全然元気だったのね、信じられないし、納得いかないっていうか、説明がまず多分意味わかんなかったんよね。だってこんなに元気だっていうのもあったし。

れな)うんうんうん

眞弓)余命宣告の不安が消えないまま1ヶ月くらい経って。ほんとなのかなと?不審に感じて、セカンドオピニオンを受診することにしたの。それであの違う病院に行って検査してもらったらやっぱり、そこでも同じことを言われて。でも今度は6ヶ月って。「2~3ヶ月増えたな」って。自覚としては至って健康。不安だけ残っていたけど、仕事が毎日詰まっていたので、あっという間にその半年が過ぎていったのね。

結局、2度目の”余命”を告げられたスキルス性胃がんについては、「できることがない」と言われながらも”余命”と言われた半年、何事もなく過ぎていきました。その後も眞弓さんは地元・札幌を拠点に地域のために精力的に働くとともに、一方では移ろう季節を大切にしながら、ご家族と豊かで穏やかな日常を過ごしていきます。

眞弓さんがいつも1日に投稿する「おついたちの日」 facebookより


そんな暮らしに異変が起きたのは、2019年のこと。当時56歳だった眞弓さんは倦怠感を自覚しました。当初は年齢のせいかなと様子見することしたそうですが、そのうち、出張の際の空港内移動でも休み休みの状況となり、やはり医療機関を受診することを決意。しかし、実現しないままコロナ禍に突入、さらに受診が難しくなったといいます。

翌年12月半ば、背部痛と横隔膜の辺りの痛みが強くなり、「誕生日前にスッキリしよう」とクリニックを受診。「胆石のため、手術が必要」と消化器科病院を紹介され、翌年1月に夫と受診すると、「大腸がんstageⅣ」という診断と、「治療しないままだと余命3年」という告知を受けることになりました。ただ、このときの眞弓さんの告知の受け止めはこれまでとは少し違ったそうです。

眞弓)「治療しないと」の部分はあまり頭に入らず、「余命3年」の「3年」という数字だけ頭に入ったけど、「3年もあるんだ」という印象だったよね。自覚症状もあったし、主治医の説明が丁寧で、質問に対する回答も丁寧。夫もあれこれ質問してくれて、そのとき聞いた治療内容は納得できるものだったと思う。

「今日すぐに入院」と言われたものの、入院後の家族の食事や飼っている犬猫の世話など家の事が気になり、数日後の入院を約束してその日は帰宅したそうです。そして、このときから今に至るまで、眞弓さんは抗がん剤治療にも挑み続けています。

れな)スキルス性胃がんの診断から大腸がんの診断をされるまでの間?病院に行きづらい事情ってあったんでしょうか。

眞弓)仕事すごい忙しかったから、その時あちこち行かなきゃいけなかったし、出張もすごい行ってて。その時は本当に週に3回とか、一日に3つ4つ5つの仕事をかける。放置しててもなんともないし、病院に行くとまたなにか見つかるかもしれない・・・とかもあって行けなくって。うん・・・・、逆に、だから行かなかったんだね。やっぱ行くのが怖いとか。
それまでも健康診断をすすめられるんだけど、いわゆるこう診断っていう名前の検査、一切しなかった。歯医者とかそれぐらいはいくけどね。そして今回の大腸がんよ。これはちょっと行かないとまずいかなってなったのが。

れな)これ以上、その病気をなんか見つけるようなことしたくないみたいな気持ちもあったってこと?

真弓)受けると絶対引っかかるじゃない。わざわざ見つけるほどのこと(自覚症状)は何もなかったし。もともと病院は大好きなんだ。それまでは本当にもう毎月っていうか、あのもう献血マニアだったからね。うん、あれほら、もれなく結果も出てくるから、自分で作ってたんだ。もうあの輸血できます。献血できますよっていう時期がくると献血会に走っていくぐらい。

れな)あのいっぱいハンコ貯めてる人とかいますよね。

真弓)そうそう。そういうそういうタイプ。ワクワクして帰ってくるみたいな。うん、もしもそのまんまね、あの不信感がなくて行けていたら、もっと早く見つかったかもしれないかなっていうのはあるんだけど、できなかったことを反省しても、仕方ないからね。

保健師として医療の知識や医療現場との接点も少なくなかった眞弓さん。そんな眞弓さんがそこまで病気が進むまで診断につながらなかったのはなぜなのか、友人であり後輩としてとても悔しく思っているのですが、だれかのためにいつも奔走して自分のことは後回しにしてしまいがちであっただろうこと、さらに今回は、コロナが大きな大きなハードルになっていたのです。そして、今思えば受診するのがこわかったかもしれない、の言葉。同時に、眞弓さんの経験を話していただく中で、告知を受ける側が背負う、物理的、心理的な負担の大きさもはじめて知りました。それはその立場にならないと到底わかりえない感覚でした。

眞弓)もう紹介してもできることがないからダメなわけでしょ。だから自分で選んでください。どこの病院がっていう指定はしないから。あなたが選んでくださいって。長い時間待たされた。待たされて、ぷつって「できることがない」と切られるから。もう余地がないのね。「あとは医療機関に任せて」ってなればもっと違ったと思うけど。

ちなみに、21年の記事などによると以前と異なり、基本的には患者本人に告知することが一般的で、患者本人が受け止めきれないような場合には家族が同席をすすめられたり、家族だけに告知されることなどもあるとかかれています。決められた告知の方法があるわけではなく、病院によっても異なり、患者の希望を含め様々なことを考慮して「適切な形」で行われるのだそう。医療者の人格、伝える技術、患者との信頼関係、患者とその家族の関係など、様々なファクターが複雑にその後の患者の人生に影響するのだろうことが想像されました。

真弓)でもね、あの余命は、伝えたほうがいい。残った時間をどう使うかっていうね。自己決定できるじゃない。
れな)それが例えば目安の数字だったとしても?
真弓)そうそうそう。データ情報はほしい。ただ、個人差がある中で、患者本人の受け止め方によっては話さない方がいい。
れな)うん。
真弓)でも。ポジティブになれる人もいるっていうね。そういうのはどこからくるのかなあっていうのはあるけど、私は言ってもらってよかった。
れな)どうして眞弓さんはそんな風に考えてこられた?
眞弓)ポジティブになったというかポジティブにならないといけなかったんだよね。そうだ、今回の話は、私がポジティブになった原点ともいえる記録だ!
れな)そうかそうかそうか
眞弓)結局そっから10年だから。
れな)10年!!

そう、眞弓さんは、医療者からは「できることがない」といわれて以来、悔やんでも悩んでも仕方ないことはおいておき、ポジティブに人生の選択をしていくことで、何度も何度も”余命”を塗り替え続けてきています。そしてそれを可能にしてきたのは眞弓さんの性格なのだと私はずっと思っていたのですが、眞弓さんの答えは「ポジティブになるしかなかった」という意外なものでした。そして今回も最後はいつもの眞弓さんのペースに・・・

眞弓)今回大腸がんの検査を受けた時にもそういうスキルス癌の痕跡なんか全くなくなってるわけだから、なんかね。データにもあるんだけれども、治る人っているのよ、これが。本当に不思議。

れな)!?
特殊体質とかなのかな?それこそほら、何かに遺伝的なこと?

眞弓)えっと、信じるんだよね。私の場合。なんかスピリチュアルの部分なのかもしれないけど・・・なくなったっていうのは、それが初めて。スキルス癌の。

信じる!?!?

この話をきっかけに、眞弓さんが体験した様々な不思議体験についてのおしゃべりが始まるわけですが、続きはまた次回!

もしよろしければみなさんの経験などもコメント欄でご共有いただけたらありがたいです。

※この文章はあくまで眞弓さんの経験したことを聞き取ったものであり、20年以上前の時代の話も含まれます。また、できることがないと言われたことはあっても、眞弓さんが標準治療を拒否したことは一度もありません。通院などをしている方は自己判断をすることはなく、必ずご自身の主治医に相談してください。

※この文章の執筆は筆者個人の活動であり、所属する組織とは関係ありません。









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