境界線をたどる -暇・退屈-
時間があって、何もするべきことがない時、あなたは「暇だ」と思うだろうか?それとも、「退屈だ」と思うだろうか。
どちらも同じ状況で使われる気がするし、意図的に使い分けています!という人はあまり居ないのではないだろうか。
でも、ちょっと立ち止まって考えてみると、なんだか、はっきりと違うコトバである気もしてきた。
「暇」or「退屈」の二者択一ではなく、「暇」and「退屈」が成り立つのではないだろうか?と思ったのである。
今回は、「暇」と「退屈」の境界線を辿ってみよう。
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両者に共通しているのは、"時間がある"ということ。でも、それぞれを使う状況や自分の気持ちを改めて思い起こしてみると、時間に対する捉え方が違う気がしてきた。
「暇」は、単に物理的に時間が存在しているだけで、時間を客観的に捉えている。私たちはその時間に、何かをしてもいいし、しなくてもいい。そんなことは「暇」にとっては、かなりどうでもいいのではないか。
何かをしようがしまいが、感情的な要素はなく、どう過ごしても自由なのだ。
一方「退屈」は、とても感情的であり、時間を主観的に捉えている。何かをしたい気もするし、したくない気もする。でも何もしないでいるのはやっぱりつまらない。
退屈には、そんな飽き飽きとした倦怠、寂しさなどの感情的な要素がたくさん募っている気がする。
うんざりした気持ちで暇だなぁと思うことがあっても、退屈だなぁと思う時よりは、感情的な要素の割合が違うのかもしれない。
そうであるならば、やはり「暇」or「退屈」ではなく、「暇」and「退屈」と考えても許されそうだ。
『暇であるし、退屈だ』
『暇であるが、退屈ではない』
『暇ではないが、退屈だ』
『暇ではないし、退屈でもない』
こんな風に与えられた時間に対して、客観性×主観的の両側面から捉えることができる。ここまでを踏まえて、違うコトバで表現してみるとより分かりやすい。
『時間はあるが、うんざりしている』
『時間もあるし、面白味がある』
『時間もないし、うんざりもしている』
『時間はないが、面白味がある』
ここまで分解して整理してみると、客観性と主観性を担保しながら目の前にある時間と対峙できて、自分の状況と気持ちを分かりやすい構造で分析できる。
また丁寧に境界線を辿ってみたい。
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