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〜石垣島で家族6人暮らし〜       「好きな場所で」自分らしく        「心も身体も健康で幸せに生きる」

私ってこんな人です。

と話す機会があったとしても、お話するお相手や、関係性、その時の体調や気分などで、多少お伝えする内容などが変わる事があると思います。

なので今日は、「今」の私が過去を振り返り
38年間をどう生きてきたか?
そして、なぜ今の生活や仕事を選択するに至ったか?

今回はそんな、吉永杏梨沙という一人の人間の
「人生の軌跡」をお伝えできたらと思います。

<目次>

・現在の活動
・幼少期
・夢
・身も心もボロボロに
・メジャーデビューして
・もう一つの夢
・本当の家族
・最後に


現在の活動

現在38歳、個人事業主として活動しており
「好きな場所」で自分らしく
「心も身体も健康で幸せに生きる」為の
お手伝いをさせて頂いております。

・ヨガインストラクター
・食育アドバイザー
・分子整合医学
・東洋医学
・アーユルヴェーダ など


幼少期

私は一人っ子の母子家庭で育ちました。
父はビリヤード選手、母は美容師という両親の元に産まれましたが、私が5歳の時に両親は離婚し、私は母に育てられました。

後になって知った事ですが、父が事業に失敗し、2000万円の借金を残して、出ていってしまったそうです。

その借金の返済もあった為か、母は朝から晩まで仕事漬けで、あまり遊んで貰った記憶がありません。
また、大変ストレスもあったのか、母は常に表情も険しく、否定的な言葉や行動が多く、「怖い」という印象でした。

そんな中、常に味方でいてくれたのがおじいちゃんでした。
保育園はおじいちゃんに送り迎えをして貰っていました。
小学生になり学校が終わった後も、仕事で母は家にいません。
そんな寂しい気持ちを埋めるかの様に、おじいちゃんがよく遊んでくれました。

寂しかったけど、おじいちゃんが居てくれて救われた。
友達もたくさん支えてくれた。

子供の頃から厳しい環境で育ち、我慢することも多かったのですが、その分、おじいちゃんや友達との時間が尊く、そんな中で愛情や友情、絆を感じる事もあった幼少期でした。

その後、18歳までは実家で暮らし、
母の美容師の後継として、その道を歩むように母に促され、当時は美容師として過ごしていました。

それから約2年間は、なんとなく仕事を続けていましたが、20歳の誕生日を迎えた時、やり残した事がなかったか、人生を振り返ってみました。

その時は明確な答えが出た訳ではありませんが
ぼんやりとした「未来への不安」や「過去の後悔」の気持ちが芽生え

この頃から、私は本当は何がしたいのか?
を真剣に考えるようになりました。

私の本当にしたいことは何だろう?

とにかく母は必死に仕事をしていました。
そんな母の背中を見続けてきた私には、本当に重要な事が母に言えませんでした。

小さな頃から憧れていた私の「夢」や
美容師を続けていくかどうかの強烈な「葛藤」も。



私は、小さな頃から歌うことが大好きで、
その時は辛い事も、寂しい事も、全て忘れられる時間でした。

私が音楽で救われたように、私の音楽で同じように救う人になりたい!

ある日、今まで抑圧し続けて来た私の中の「何か」が弾け飛びました。
「夢」への強烈な衝動に駆られたのです。

母からすると突然の出来事だったとは思いますが、私は美容師を辞める事を伝え、夢であった音楽活動に向けて動き出しました。

数あるオーディションを受け続けました。

そんな中、あるプロデューサーにこんな事を言われました。

「君には恋愛の曲が歌えないね」

父親の愛情を受けて育っていないからか、男性に対しての不信感が常にあり、
本当の恋愛がなかなか出来なかったのです。

葛藤の中、オーディションを受け続けますが、何度も落ちてばかりでした。

歌手活動の傍らアルバイトで日銭を稼ぐ日々。
本当にこれで良かったのか、わからなくなる日もありました

足掻き、もがく時間は長く…

いつしか夢を諦めそうになっていました。

そして私が23歳の時でした。

大好きだったおじいちゃんが
糖尿病からの合併症で73歳で亡くなってしまったのです。

本当に本当にショックでした。
その悲しみや当時の環境のストレスから
私は甲状腺疾患の「バセドウ病」を患ってしまいました。


身も心もボロボロに


病を患ってからは全てが絶望でした。

しかし、それと同時に初めて命の尊さを感じ

生きるために

「健康でいたい」

と思った瞬間でもありました。

それまでは、食に関しても何の知識もなく

好きな物を好きなように食べていたので
当然食生活も乱れがちで、生理不順もあり
肌も荒れていました。

治療をしながら、徐々に音楽活動を再開し
同時に健康についても学び始めました。

ヨガ、分子栄養学、東洋医学、中医学、アーユルヴェーダなど
様々な分野で幅広く学ぶ事で、思考が偏る事がなくなり

その変化は音楽活動の側面にまで影響が起こり始めました。

当時レッスンをして頂いていたボイストレーニングの先生は、ゴスペルの先生であり、徐々に私の変化を感じ取り
ヨガや、自己啓発、エネルギーワークなどを行い
私の歌声を変化させてくれたのです。

その後もオーディションへの参加を繰り返し

5年間の苦しい下積み時代を経て

26歳でとあるプロダクションのオーディションに合格。
メジャーデビューが決まりました。

デビューシングル「キズナ」

夢は挑戦し続ければ叶うんだ!
この世界で活躍して、今までお世話になった人達に恩返しがしたい!

メジャーデビューして

それから間もなくして
恋愛の曲が歌えないと指摘をしてくれたプロデューサーさんと再会する事になりました。

そして私の歌声を聴いて、劇的に良くなった事をとても褒めて頂けました。

又、その方を介して出会った男性と
お付き合いする事にもなり

新曲を3曲程リリースし
各地でライブ活動などを行うなど

順調な一年を過ごす事になりました。


そんなある日…

お付き合いしていた方との間に

子供を授かる事になりました。

しかし…
彼は既に家庭を持っている事が判明したのです。

世間的にも風当たりは良くない関係性。
更にプロダクション側も、世間に妊娠が発覚した場合は契約を切らざるを得ない
との回答でした。

ようやく掴んだ「夢」が一瞬で崩れてしまう
そんな不安と恐怖で、目の前が真っ暗になりました。

しかし、夢を諦める事はできないと
妊娠が明るみになる前に堕ろす事を決意し
産婦人科へ行きました。

そしてエコー写真を見た時
強烈に込み上げてくる感情と共に
大粒の涙が溢れ落ちました。

「この子の尊い命を奪う事は出来ない」

大好きだったおじいちゃんが
大切にしてくれた私の命。

そのお腹に宿った新しい命を
「産みたい」「産まなきゃ」
と強く願ってしまいました。

その後、私はプロダクションを退社し
27歳で男の子を出産しました。

しかし、音楽活動は続けていきたかったので
インディーズのプロダクションに所属し
育児をしながらではありますが
音楽活動を再開しました。

その2年後
今度は女の子を身籠もり出産。

シングルマザーとして
2人の子供を育てながら
地道に音楽活動を続けていました。

しかし、私が幼少期に経験した寂しさを
この子達にはさせたくないと思うようになり

31歳でミニアルバムを制作した後
私の音楽活動に幕を降ろしました。


ミニアルバム「こころ〜目に見えない大切なもの〜」


もう1つの夢


大好きな音楽への道を断ち

好きな事ではなくとも
生活するためには仕事を探さなくてはいけません。

やり切れない想いを押し殺しながら

就職活動をしていた、そんな時。

後の人生の師であり

ヨガのお師匠様と出逢います。

当時独身の方しか受け入れていなかった
ヨガスタジオに特例として
シングルマザーである私を
受け入れて下さいました。

しかし、子供が風邪を引いたりすると
会社にも迷惑が掛かるため
白い目で見られることもありました。

やっぱり自分には無理なのかな…

そう思うこともありましたが、子供たちの生活を支えて行かなければいけません。
それに、お師匠様に結果で恩返しがしたかった。

とにかくがむしゃらに努力しました。
限られた時間の中で必死に練習しました。
子育てをしながら、寝る間も惜しんでテストを受け続け
ようやく1人前の講師として
活動できるようになりました。

それからも無我夢中に、ひたすら仕事と育児の日々は続きました。

そして気付けば、700名以上の食や姿勢を整えさせて頂いていました。


姿勢改善ヨガ


そうして新たな仕事も安定してきた頃

お師匠様の死が待っていました。
ずっと応援してきてくれた、大切な人がまた…


「ありさにはきっといい人が現れるから大丈夫」

最後のLINEはいつも寄り添ってくれる
温かい言葉でした。

また大切な人が亡くなってしまいました。
死因は癌でした。

皮肉にも、改めて健康のことについて
勉強をするキッカケとなりました、、、

もう大切な人を病で失いたくない。
そして健康で幸せな人をもっと増やしたい。


そこから食の事、ヨガの事、東洋医学から、中医学、分子整合医学、ファスティング
アーユルヴェーダに辿り着き
振り返れば「健康」について
学び始めて17年目となりました。

本当の家族


お師匠様の死を迎えて半年後、最後のメッセージの通り
主人との運命の出逢いを果たします。

「頼んだよ」と告げるように…

主人とは、共通の御作法の先生が
2019年の10月に開かれた
お月見会で出逢いました。

主人は俳優として活躍している人で、音楽活動をしていた私にとって、とても尊敬ができたし、共通の悩みや葛藤なども経験している人でした。

又、そこに至るまでの人生も紆余曲折、波瀾万丈。
そしてなにより見た目や言動に反して
物凄く繊細で純粋な心を持っている人でした。


なかなか大人に心を開かない息子が
初めて主人と会ったその日に
「なんか家族みたいだね」
と言い出し、数日も経たないうちに
「パパ」って呼びたい。
一緒に暮らしたい。
と言ったのは本当に驚きました。


パパと呼ぶようになった頃


亡きお師匠様が背中を押してくれるかの様に
出逢って5ヶ月のスピード結婚。
子育てするなら自然の多い所が良いよね、と
あっという間に石垣島に移住することになりました。

主人の行動力と決断力は
いつも私がワクワクする方向へ導いてくれます。

「家族になったんだ」

島での暮らしは私たちの絆を更に深め
主人の存在によって「家族」としての歯車が大きく回り始めました。

また、移住と同時に世界的なウィルスの流行もあり
私たちは働き方を大きく変える必要がありました。

様々な事業がオンライン化

そんな時、ヨガの事業もオンライン化する事になり
パーソナルヨガ専門のインストラクターとして活動を始めました。

それにより、全国各地の方と自宅で子育てをしながらでも繋がる事が出来るようになりました。


オンラインヨガへ移行した頃


その後、主人との間にも子供を授かり、2児を出産し、4人の子育てをしながら
石垣島という大自然の中でも、在宅でお仕事が出来ています。

これが「今」の私に至った経緯です。

全ての出来事や経験は無駄ではなく
点と点が繋がり線となり

その線は更にずっと先の未来へ
続いているのだと実感しています。

最後に

とっても長くなってしまいましたが
私の願いは

自分を含めた家族
そして今こうして繋がる事の出来た皆さんと
「心も身体も健康で幸せに生きる」為の
お手伝いが出来れば嬉しいなと思っています。


こんな時代ではありますが

大切な人たちと共に
日々笑い合って
大好きな場所で
自分らしく、幸せに生きていきたいと
心から想っていますし、皆さんともっともっと分かち合っていきたい。

職場で働き辛さを感じるママさん
何をしたらいいか迷っている方

私もたくさんの恩師の出逢いによって、その時のタイミングで
大切な方たちのと出逢いがありました。
心から救われてきたように私も誰かのそんな存在になりたい。

力になって背中を押してあげたい。
そんな役割を果たすことが出来たらと思います!

最後まで読んで頂き
有難う御座いました😌✨




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