母と叔母の実家へ行ってきた(その3)

1.少年時代の感情、再び

 小学生時代、母の実家から帰る前日、決まったように泣いていました。
「ここから離れたくない」
「ここでもっと遊んでいたい」
「おじいちゃんとおばあちゃん(母方)ともっといたい」
 そんな気持ちが、自分自身の中にありました。

 話には聞いていた、母の実家がもうここにはない現実を見て、再び涙腺が緩んできました。
 夏は海水浴の他に、小学校の敷地にあったプールで水浴びをし、地元の小学生とも遊んだこと。夜になったら花火をみんなでしたこと。
 縁側で夕涼みをし、すいかやトウモロコシがおやつ代わりだったこと。
 冬は雪が積もった裏山で日が暮れるまでそり遊びや、高く積もった雪に穴を掘ってかまくらにして、中に入ったこと。

 これらの思い出が浮かび上がり、そして現在と重ね合わせていたら、再び泣きそうになりました。裏山に上り、そこから遠くに見える山々を見て。

2.交通の便も、変化した

 交通の便も、大きく様変わりしました。
 母の実家から自転車で10分くらいのところに最寄りの駅とバス停があります。
 この県最大のターミナル駅と、5本の指に入るターミナル駅を繋ぐ路線があり、しかも単線です。
 近くのターミナル駅(5本の指に入る)に行くのに30分くらいかかります。最大のターミナル駅に行くのに、当時(40年近く前)3時間くらいかかりました。
 新幹線以上の所要時間です。

 バスはその5本の指に入るターミナル駅と県第2位のターミナル駅を結びます。バス停からバスに乗り、どちらとも30分以上かかる路線です。
(所要時間1時間くらい)
 バスは後乗りで整理券を取り、目的地で料金を払うシステムです。
 片道どちらのターミナル駅に行くにも、片道約800円(大人料金)かかりました。

 小学校時代では電車、バスとも1時間半から2時間くらいに1本来るといった状況でしたが、現在ではその間隔がもっと広がったと考えられます。
 昨今、鉄道もバスも採算が取れずに経営が悪化。交通手段もマイカーが主になり乗客数も減少。こんな状況ならば本数を削減し、人件費を縮小するなどの策を講じて会社を維持しなくてはなりません。

3.町の商店街も様変わり

 駅前の商店街も様変わりしてました。
 小学生の頃は小さなスーパーが2つあり、駅前の商店街にある店を使えば生活は十分できる状況でした。

 現在はそのほとんどの店のシャッターが下りたままになったり、店自体を畳んで空き家若しくは更地になっていたりと、商店街の面影は全くと言っていいほどありませんでした。
 国道沿いにあるスーパーやホームセンターで生活必需品を買うため、海沿いに住む住人も山を越えてやってくるといった状況です。

4.高齢化を迎えた影響

 町の住民も高齢化を迎えています。
 老夫婦だけや老人一人世帯の家は珍しくありません。子供や孫たちが年に数度地元に帰るのも、パンデミックがあった影響でなかなか戻ってこないここ数年の現状もあるようです。
 久しぶりに帰った家族もあることだろうと思います。

 前にも書きましたが、もう誰も住んでいない家がありました。大きなお屋敷でも空き家があるくらいです。
 空き家の処分に困っていると最近都心部でもありますが、御多分に漏れず、ここも影響はありました。
 今年クマが町中にいても物怖じしないというニュースがあります。山から出て来たクマがエサを求めて街に繰り出し、人間を見ても平気で闊歩するという現状です(アーバンベア)。
 
 空き家が増えれば、街に慣れたクマが一時的に新しい”拠点”にすることも考えられます。
 現にこの町でも空き家にタヌキやハクビシンが住み着き、ここを生活の拠点にして農作物をあさっている話を聞きました。

 こういう点で、生存共栄するもの何だかとも思います。


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