【小説】紺青のズボン
静まり返った夜のだだっ広い駐車場で若草(わかくさ)という名の少年はひとり夜行バスを待っていた。
若草は同世代の少年が選びそうもない紺青のズボンを身につけていた。自分以外の何かで個性を主張することは好きではなかったが、皆と同じように白い服と黒いズボンで学校に行くのは嫌だった。だから紺青のズボンは他の人にはない彼だけのトレードマークだったのだ。
冷たい夜風が頬をさすりながら冬の訪れを告げていた。雪が降ってもおかしくないようなこの寒さの中でいったいどのくらいの時間バスを待てばいいのだろうかと、少年は思った。時刻表は確認したはずだったが読み間違えていたのだろうか。20時15分にはバスが到着すると書いてあったはずだ。時刻表を確認したところで時計を持っていない少年にはあとどのくらいでバスが来るのか検討もつかなかった。
時間なんて概念に縛られることがなければ未来への不安なんて存在しないのに。
バスが来るなら来る。来ないなら来ない。
それだけさ、気にすることはない。少年はそう心の中で何度も唱えていた。運命論者なんてロマンチストな考えは好きにはなれないけど根本的には一緒なのさ。結局自分にはコントロールできない大きな何かによって支配されている。でも悲観することはない。なるようになるだけなのさ。
ヒューッと再び冷たい夜風が少年のほおを撫でた。今度は冬の訪れではなく少年に家に帰るように諭しているようだった。
震えているのは寒さのせいだけではなかった。
少年はこっそりと家を飛び出してきたのだ。何者でもない自分を変えるために特別なたったひとつの自分らしさを見つけたくて。画一的な社会から抜け出したくて。
夜行バスで街の中心部へと向かいそこからどこか遠い国へ旅立つ。それが少年の計画だった。あまりに思慮不足で浅はかな計画ではあったが計画した当初の少年の心はメラメラと燃えていた。
それでも冷たい夜風がそのメラメラと燃えていた炎を吹き消してしまったようだ。
もう帰りたいと、少年はひとりごとをつぶやいた。空を見上げると明るくて大きな満月が少年を見下ろしていた。
だれも手の届かないその場所からお前は地球に住んでいる我々を見下ろしているつもりなのか。地球がお前を見下ろしているかもしれないだろう。そんなに見下されるのが嫌なのか。
しかしそんな少年の思いは月に届くはずもなく、大きな満月は目線を少年から別の男へと移していた。
・・・
その男の名は牡丹(ぼたん)と言った。
少年から少し離れた黒柿色をした木の下にその男は立っていた。
できるだけ目立たないようにと黒い服を身にまとったその男は暗闇の中に上手く潜めているようだった。
黒い服を着た男はその街一番の会社の社長の息子だった。お金と名声のおかげで皆からもてはやされ、ほしいものは手に入り何不自由ない満ち足りた生活を送っていた。
その男はそんな生活から逃げ出したかった。満たされることで幸せに対しての感覚が鈍るのだろうか。それとも満たされない部分が鈍感な人間を幸せに感じさせているのだろうか。
街一番の社長の息子であるその男は何者でもない誰かになりたかった。何者かであることは疲れるのだ。そんな生活から逃げるために自分のことを誰も知らない遠い国へと向かうつもりだった。そのために夜行バスを待っているのだ。
その男の財力からすれば夜行バスなんて使わなくても空港へと向かうことができた。それでも一番目立たない時間帯と交通手段を選ぶ必要があった。何者でもない自分になるために。
葡萄色の時計に目を向けると時刻は20時11分を指していた。コオロギの鳴き声を聞きながらベイツビルの街並みを想像してみた。その男はベイツビルを訪れたこともなければ見たこともなかった。そもそもベイツビルという街が存在するのかも分からなかった。それでも異国の地を想像するだけで期待に胸が膨らみ風船のように空へと行ける気がした。
そんな空には大きな満月が浮かんでいた。
まるで俺みたいだなと、黒い服の男はつぶやいた。唯一無二の存在でいる上に輝いていている。お前はそんな生活をいったい何年続けているのか。月以外の何者かになりたいと思ったことはないのかい。
あたりに人が集まっていることに気づいたのは夜行バスが到着してからだった。
想像していたよりも小さなバスに想像していたよりもたくさんの人が乗り込んでいく。
そんな人たちの後に続いて黒い服の男も深夜を駆ける箱の中へと入っていった。
・・・
若草という名の少年は一番先に夜行バスへと乗り込んだ。誰よりも長く待っていたからそれくらいのことはしてもいいだろうと。
座席番号を確認し硬いシートに深く腰掛ける。座り心地がいいとはお世辞にも言えなかったが何時間も立っていた少年の身体をすっぽり覆ってくれたおかげで少年は身体が溶けていくように癒されたのだ。
街の中心部へは10時間ほどかかるらしいので早めに睡眠を取っておこうと目を瞑りかけたその瞬間、
「こんばんは。ここの席はC3かな?」と黒い服の男に声をかけられた。
「はいそうです」と嬉々として少年は答えた。家に帰りたいという寂しさからなのか孤独から解放されたからなのか少年は声をかけられたことがなぜか嬉しかった。
夜行バスは静かに走り始めた。
「おじさんの旅の目的はなんですか」少年は眠気も忘れ言葉を繋ぐ。
「何者かでいることに疲れたんだ」と男は言った。
「おじさんは何者なの?」
「お金持ちで有名な社長の息子さ」と男は誇らしげに答える。
少年はこの男はなんて思慮不足な大人なのだろうと思った。大人は常識だけを身につけて賢くなったと思い込んだまま大きくなってしまったのだろうなあ。
「あなたはもうすでに何者でもないと思います」
「どうして?」
「お金や名声なんてそれはあなたという人間のかざりにすぎないと思わないのですか?あなたはその飾りを身につけているだけで何者かであると勘違いしています。その飾りを外したときあなたという人間には何が残るのですか?」
男は何も答えなかったがなぜか笑っていた。
「少年よ、お前の旅の目的はなんだ」
「何者かになりたいのです」
「じゃあお前は今何者でもないと言うのか?」
「そうです」
「なぜだ?」
ほとんどの乗客は眠っていて彼らのいる席の読書灯だけが明るく灯っていた。
「私のいる小さな世界では普通でいることが良しとされるのです。みんな何も考えずに多数に群がることで均一化・画一化の社会へと没落しているんです。他の人とは違うたったひとつの自分らしさを持ってこそ何者かであると思うのです」
少年は喉が渇いたので水を少し口に含んだ。紺青のズボンに水滴が落ちる。
「それを言うなら俺だって他の人より金を持っているし名声もある。十分何者かである素質はあるだろう?」
「あなたが持っているのはただの飾りです。お金がなくても肩書きがなくてもあなたという人間を語ることのできることこそが何者かであるということだと思うのです。だから私は他の人と違う何かを求めて画一化した小さな世界からにげだしたのです」
少年は少しばかり喋りすぎたと反省した。窓の外を見ると二羽の鳥が夜行バスと競っているかのように軽やかに飛んでいた。
「なあ。他人との差異だけが個性なのか?」と黒い服の男は今までにない真剣な表情で少年に問いかけた。
「他人と同じ部分を削ぎ落としていってお前に何が残ると言うのか?お前はまだ小さくて知らないかもしれないがこの地球にはたくさんの人間が住んでいるんだ。そんな人たちとひとつも被らない個性なんてあるものか」
そう言うと男は黒い帽子を深く被り眠ってしまったようだ。
読書灯を消して少年も眠りにつこうと思ったのだが黒い服の男が言った言葉が頭から離れなかった。
他人と同じ部分を削ぎ落とした結果私に何も残らないのならばどうやって画一化された社会から解放されて何者かになれるのか。
少年はその答えを知りたくて黒い服の男を起こそうとした。その時に男が少年と同じ紺青のズボンを履いていることに気がついた。そして少年はその男が身につけているものを改めて観察した。
黒い帽子
黒い服
葡萄色の時計
紺青のズボン
そのひとつひとつは特別なものなんかではなくて他の多くの人が持っているアイテムなのだろう。唯一無二なんてものはなくても他人と同じ部分を削ぎ落とさずとも組み合わせ次第で画一化から抜け出せるのかもしれないと、少年は思った。
何者かになるためには特別なたったひとつの自分らしさを見つけることではない。他の人も持っているであろうありふれた自分らしさでもその組み合わせによって人間の個性とは多種多様になっていくのだろう。
何者かになるための大きなヒントをこの男から学ぶことができた少年は満足そうに眠りの世界へと入っていった。
・・・
朝の眩しい日の光で少年は目を覚ました。昨晩少年を見下ろしていた満月は太陽の光に負けてもう見えなくなっていた。夜行バスは目的地へ到着していた。黒い服のあの男はもう隣にはいなかった。画一化された社会でも何者かであることはできる。そう思った少年は遠くの国へ旅立つ計画を中止し紺青のズボンと共にふるさとへと帰ることにした。
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