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いつから人のために写真を撮るようになったのか、自分の為に撮るコトも価値がある

ふと、今まで自分が取ってきた写真を振り返ってみた。

なんとなく取った机の上のお菓子の画像とか、絡まったコードとか。多分テーブルに座って置いてあったカメラでふと撮った写真たち。

「あれ?自分結構いい写真とるじゃん」なんて感じたのが率直なところ。

そこで気づいた自分のために写真を撮るコトの価値を考えてみた。

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自分が撮る写真なら自分を満足させることができる

いたって当たり前のことだが、自身が良いとおもったシーンや瞬間でカメラのシャッターを切る。

それはつまり、自分の好きな写真を常に生み出すことになる。

後で見返したときに心動かされることがあっても不思議ではない。写真だけではストーリーを感じられなくても、自身はその場にいた経験があるから埋め合わせしつつ楽しむことができる。

小学生のときに旅行で撮っていた写真がよりピュアな撮影だったのだと思う。「あとでもう一回この景色をみたい」この気持ちが全部だ。

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人に認めてもらう嬉しさに囚われすぎている

写真を撮る人なら、ちょっとした撮影を頼まれたり、SNSなどで写真を公開したこともあるはず。

そんなときに、人に「いいね!」といわれることの嬉しさに気づく。

自分が好きなカメラを使って人を喜ばせることができる。ひとりで完結していた頃とは違う充足感がある。

「次も頼むよ!」なんていわれたときには、次はもっと良い写真をとって喜んでもらおうと考えるはずだ。

日常的に、次はこんな構図にしようかであったり、カメラの設定について勉強をし始める。

他人が入ることで客観的に自分を見れるようになったり、技術向上のきっかけになったり良いことは目白押しだ。

ただそれゆえに、人にみせることを前提に全ての写真を撮るようにもなりやすい。極端にいえば、この写真は褒めてもらえたから"良い写真"。こっちはよくわからないといわれたから"良くない写真"と割り振ってしまうことがある。

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もう一度自分のために写真を撮ってみよう

あくまで趣味の範囲ではあるが、自分のために写真を撮るという当たり前のことをもう一度意識すると表現の幅が広がるかもしれない。

他人という存在が当たり前になっている状態から、自分のためだけというのはやる気の出にくい行動かもしれない。

それだったら撮らなくて良いやとなるのもひとつ。

そこで完全に自分の好みで写真を撮ることの楽しさに気づけたら、ほんのちょっとだけ普段の生活に楽しさが増えるかもしれない。

カメラは人のためだけに使うものではない。自分のためにも使える面白い道具なんだと思う。

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