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ぐるぐる話:第31話【ふたりの涙】@2598


「食欲がないから、ちょっと散歩いってくる・・・」


木綿子に言い残して部屋を出た杏は、廊下を歩いている間中ずっと、まるで宙に浮かんでいるようなふわふわした不安定さをカーペットを踏むたびに感じていた。


散歩へ行くとはいったものの、10月の山の夜は涼しいを通り越して肌寒いと感じるほどだ。浴衣の上に丹前を羽織っていても、10月の星空と山の空気はきっと杏の細くて華奢なからだをあっという間に冷たくするだろうことは考えなくてもわかった。
宿帳があるフロントを抜けて、ガタガタと風が揺らすガラス戸をじっと見つめながら躊躇していると、後ろから鈴を転がすようなすみれの声が話しかけてきた。


「お出かけですか?もうこの時間ではあたりは暗くて、お散歩もあまり楽しめないかもしれませんけど・・・。」


すでに聞きなれたと感じる鈴のような声と、柔らかな表情にほんの少しだけ心配の二文字を浮かべたすみれが言う。


「なんだか食欲がないから、ちょっと散歩して小腹を空かせてこようかと思ってたんだけど・・・そうよね・・・寒いわよね・・・」


「そうでしたか・・・もう、この時間は足元も暗いし寒いでしょうから、それでしたらお風呂にゆっくり浸かってみる・・・っていうのはいかがでしょうか?入浴って思っている以上にカロリーを消費するし、もしかしたら食欲もすこしは戻ってくるかもしれませんよ・・・?」


口角をあげた顔をまじまじと見ると、今までまったく気づかなかった笑窪が両頬にうっすらと影をつくり、昼間は少しも気にならなかった切れ長の目の下にはクッキリと隈ができていた。


「そっか・・・お風呂ね・・・その手があった・・・じゃあ、すみれさんのいうこと聞いてお風呂はいってこよっかな・・・」


杏が言い終えるとほぼ同時に、すみれはさっとフロントの奥へ姿を消し、あっという間に真っ白なバスタオルとフェイスタオルを手に戻ってきて、杏に手渡した。


「どうもありがとう・・・」



手渡されたふかふかのタオルを手に女湯の暖簾の手前で振り向くと、すみれはまだ残っている仕事を片付けるためなのか、そそくさとフロントの奥へすいこまれるように姿を消していった。


昼間きたときと、状況はまったく違ったものになっていたけれど、それでも柚の意識も戻ったし、入浴中に事故があったせいで、なんとなく有耶無耶になっていた温泉のお湯を楽しもうという気持ちが、いつの間にかこころの中にふつふつと湧いてくるのを杏は感じていた。


誰もいない脱衣所には小さなオルゴールの音でクラッシックが流れていた。
大浴場にも人影はない・・・立ったままシャワーの湯を盛大に出して全身をお湯で流したあと、誰もいない大きな浴槽にゆっくりと浸かる。


“そうだ・・・光ちゃんやエロシさんにお土産買っていかないとね・・・何にしようかな・・・”などと考えながら、御影の浴槽のへりに頭をのせて全身の力を抜き天井の明かりを反射させキラキラと光るお湯にからだを浮かべた。中途半端になっていたお湯をたっぷり楽しんだ。


小さな檜の椅子に腰掛けて髪を梳かすように洗い、からだを流す。確かに、すみれがいったように、お湯につかったおかげか、少し気分も晴れたし、これならあの白ごはんにもありつけるかもしれない・・・と少しだけほっとしながら、強くシャワーをあてた風呂桶を、同じようにシャワーの湯で流す椅子の上におくと、あたりいちめんにお湯を気前よく流し半ば掃除をしているような杏だった。


温泉でのマナーを小さな頃から厳しく言われている杏と柚には、半ば掃除のようなこの儀式が体の奥まで染み付いていて、何も考えなくても自然と手足が動く木綿子、麻子から受け継がれた躾糸だった。


フェイスタオルで全身の水滴をふきとると、入り口のバーにかけてあったバスタオルをからだに巻きつけながら浴室を出る。


からだから湯気をのぼらせながら、鏡の前に立った杏はぎょっとした。鏡に映っている竹でできた長いすに、覆いかぶさるようにすみれが突っ伏しているのだ。


驚いた杏はバスタオルのまま、すみれの背中をやさしく叩きながら声をかける。けれども返事がない。


「え?今度はすみれさん?」


思わずひとり言が口をついて出た。けれど、そんなことを言っている場合ではない。慌ててからだをふくと、すぐさま衣類を身につけ、再びすみれに声をかける。けれどもやっぱり返事はなかった。


柚に続いてすみれまでもが・・・?嫌な予感がしてフロントへ駆けつけ、大声で叫んだ。


「すみません!誰か!すみません!誰かいませんか?すみれさんが・・・こちらのすみれさんが、たいへんなんです!!!」


その声を聞きつけた楓屋の女将が、少しあからめた顔をして出てきた。


「うちのすみれですか?すみれがどうかしたんですか?」


「ええ・・・いま・・・その・・・女湯の脱衣所で倒れているんです!!!早く!救急車を!」


「あらやだ・・・またなの?まったくもう・・・これだから最近の若い娘ってのは困っちゃうのよ・・・ほんっとにもう!」


言い終えるより先に歩き出し、女湯の暖簾をくぐる。格子戸を開け中に入ると、相変わらずすみれは竹の長椅子の上に覆いかぶさるよう突っ伏していた。すると女将はいきなりすみれの着物の衣紋を鷲づかみにすると、そのまま引っ張り力任せに前後に揺すった。


「きゃっ!」


その瞬間、すみれが猫のような高い声とともに飛び起きて振り向く。女将は物凄い顔ですみれを睨みつけて言った。


「まったく!こんなところで何を居眠りなんかしてるんだい!お客さまに無様な姿をお見せして、みっともないったりゃありゃしない!いい加減にしておくれよ!もうっ!掃除は全部済んだのかい?・・・あらやだ・・・まだ終わっていないじゃないの・・・!今晩は夜もあるんだからさ・・・早くしておくれよ・・・ったくもう・・・」


木綿子たちが宿についた時とはまるで別人のように、意地が悪そうな様子で吐き捨てるように言いながら女将は脱衣所から出て行った。


泣きそうな表情で立ちあがるすみれの瞳にはうっすらと涙があった。

いましかない!


杏はすみれのそばに歩み寄り正面に立つと、両手ですみれの両手をとる。


「きっと何かたいへんな理由があるんでしょ?私がなんとかするから!ね!話を聞かせて!すみれさん!」


今にも涙があふれそうな大きな眼ですみれをじっと見つめながら、杏は震える声をやっとのことでしぼり出した。



【 第32話へつづく 】



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