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ぐるぐる話:第26話【春の海と暁の寺】@3430


正座をして真っ直ぐに木綿子を見つめる美花の瞳は、その奥先に宇宙へと続く扉でもあるのではないかと思うほど、深く、慈愛に満ちて輝いてみえた。実際に、美花が娘の花音を見つめるときのその表情は、まるで天使を見守る女神のようにすら感じる。

麻子を育てていたとき、はたして、自分はこんなにもあふれる愛を抱えていただろうか・・・と思い出そうとする。今と違ってまだ子どもを育てることがビジネスになっていない、きわめてのんびりした時代。朝から晩まで、炊事、洗濯、掃除、買い物、雑用に追われている間、いつでも背中にくくりつけ、片時も麻子を放さない木綿子ではあった。

光太郎の仕事は朝早く夕方早い、言ってみれば子育てをする妻にとっては有難い職業だった。1日中あちこち外で駆け回り疲れているだろうに、仕事から帰ると、手洗いうがいを済ませた光太郎は一目散に麻子めがけてすっ飛んでいった。声をかけ、笑いかけ、抱っこをして、惜しげなく全身で麻子を可愛がる。

光太郎が麻子をだいじに扱う様子を傍で見ているひとときは、どんなにたいへんな子育ても、たいへんさを全部幸せに引き換えてくれるような至福のときだった。よくおっぱいを飲み、つぶした芋をよく食べ、白ごはんが大好きだった麻子・・・小さい頃は風邪ばかりひき熱ばかりだして・・・病弱だったのに・・・いつの間にか丈夫に逞しくなって・・・そういえば・・・幼稚園での最後のお遊戯会・・・主役に選ばれなかったときのあの大泣きはたいへんだったな・・・。



アンドロメダ星人のあたしより、かぐや姫の役を上手にできる子なんているわけないもん!



来年から小学校へ入学するというのに、幼稚園からの帰り道、わけのわからないことを大きな声で喚いて泣いて・・・本当になだめるのに苦労したっけね・・・美花の瞳の奥をのぞいているほんの一瞬の間に、木綿子はふとそんなことを思い出した。



んじゃさ・・・その・・・さっきの話の続き・・・スターなんとかってのをさ、聞かせておくれよ・・・




木綿子は少しだけくずれた鬢を手馴れた手つきで髪にそわせるようにまとめながら、花でも見ているかのような笑顔をうかべて美花を見つめた。


ええ・・・どこからお話すればいいのか・・・目上の方なので、少し緊張しますけど、私が知っていることの中から、できるだけわかりやすいお話をさせていただきますね。

途中で何か不思議に思われることがあったら、どうぞ遠慮なく聞いてくださいね。変に誤解されないよう、答えられることにはきちんとお答えしたいと思っていますので・・・



そうですね・・・たとえば・・・木綿子さん・・・「ああ・・・なんだか何かに守られているな・・・」って感じたことはありませんか?たとえば九死に一生得たとか、思わぬときに思わぬ人から突然連絡がきて助けてもらったとか・・・そのときは必死で気づかなくても、あとになって考えてみると、ちょっと不思議に感じるような何か・・・霊的なものとか・・・霊感とか、そんな不思議な感覚を持たれたことありませんか?


おそらく、すぐには信じてもらえないとは思いますけど、私たち・・・私と花音は人間の形はしていますが、中身は人間ではないんです。でも、自分たちがいったいどうして選ばれたのか、自分たちがいったい何をするために選ばれたのか、まだ私にもよくわからなくて・・・


・・・まだ花音がお腹の中にいるとき、きっとしばらく海外旅行も行かれないだろうし、前から行きたいと思っていたワットアルン・・・暁の寺を見にいこう・・・っていうことになったんです。


ワットアルンと聞いた木綿子は、座卓にのせて組んでいた両手に体重をかけるようにして腰を浮かせると、さらにわずかに座卓に近づき腕全体に体重をのせるようにして身を乗り出した。

話は聞いているよ・・・と言っているかのように小さく頷くけれど、そこにはさっきまでの笑顔はなく、どうにかして、この腑に落ちない話を腑に落とそう・・・そう考えていることが、美花には手にとるように解った。


きっかけは意外なことだったんです。
竹内結子さんと妻夫木聡さんっていう俳優さんをご存知ですか?私たち夫婦はそのふたりの大ファンで・・・主人は竹内結子さん、私は妻夫木聡さん、まだ私たち夫婦が出会う前からずっとずっと密かに応援する隠れファンだったんです。


あるとき久しぶりに学生時代からの友人から突然の連絡があったんです。今度そのふたりが共演する「春の海」という映画のスタッフになった、ついてはあなたたち2人が好きな2人だから、試写会のチケットを送ってあげる・・・こころして映画館へ行くように!って・・・まだ花音が生まれる前、私達が結婚する前の話です。


うんうん・・・と声には出さないけれど、ほんの少しだけ眉根にシワをよせて、なんとか理解しようと話にくらいついている木綿子は、相変わらず身を乗り出したままだ。


それで・・・私達・・・そのお恥かしい話ですが、その「春の海」という映画が三島由紀夫作品だということすら知らなくて・・・「春の海」に対して何の知識も持たずに映画を観に行ったんです。

その切なさにふたりとも胸えぐられるような不思議な運命を感じて・・・「春の海」からはじまる四部作を一緒に読んでみないか?っていうことになって・・・どうせ読むなら、文庫版じゃなくて、その時代の古書を探そう・・・って・・・何だか2人して子どもみたいにワクワクして盛り上がっちゃって・・・とにかくあちこちの古書店めぐりをしたんです・・・。そして何年かかかって、やっとすべての本を手にしました。


「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」・・・この四冊・・・遅まきながら、ふたりして読みました。その時の感想はここでは省略しますけど・・・でも、もしも少しでも興味がおありなら、木綿子さんにもぜひ読んでみてほしい・・・とても素敵な物語なんです・・・。




美花がいった瞬間・・・それまで前のめりになって話を聞いていた木綿子は、ふうーーーーーと大きく息をはくと、座卓から手をおろした。そしてわずかに体重をうしろへと移しながら、両の掌を畳みにぺたっとついて体をささえた。



そうなんだ・・・そうなんだね・・・きっかけは暁の寺だったってことなんだね・・・?今までの話を聞いている間、私はずっと鳥肌が立ったまんまだよ。驚いた・・・美花さん、今あなたが言ったその四冊の本・・・うちに全く同じものが四冊そろってるよ。どれも、三島由紀夫の直筆のサイン入りの本がね・・・あるんだよ・・・。

私はまだ若い頃に東京に出てきた捨て子のしがない田舎育ちの身だけどね、うちの人の家はさ、江戸から続く植木屋なんだよ・・・たいした家じゃないんだけど、それでも昔からのものがたくさん蔵に眠っていてね・・・。

昨日、花音ちゃんにあげた火打ち石あったろ?家は代々にわたって仕事へ出かける前には必ず火打ち石つかって切り火をしているんだけどね・・・あるときその火打ち石が見つからなくてね・・・まあ1日くらいはいいだろう・・・なんて切り火をしないでうちの人を仕事へ送り出したことがあって・・・

そうしたらその日、丁度その日は大きな木の剪定をしていたらしいんだけど、木にくくりつけていた梯子の紐がゆるんで、うちの人ったら高いところから真っ逆さまに落っこちたんだ・・・まあ、幸い怪我はたいしたことなかったんだけどね・・・

それで、その時にうちの人のお母さんがさ、火打ち石を入れる入れ物を玄関に置いておけば、石をどこかへやってしまうこともないだろう・・・って言ってね・・・蔵の中に古い久谷の浅鉢があるはずだから、それを持ってきて石のいれものにしたらいい・・・って・・・

さっそく蔵に入って、あちこち穿り返して探していたら、久谷の浅鉢といっしょにその四冊の本が埃まみれになって仲良く並んでいたんだよ。ちょうど私のお腹の中で麻子がひゃっくりをしていた寒い冬の夕暮れ時の話だよ。なんだい・・・なんだか暁の寺にはなにかあるんだろうね・・・私も依然あのワットアルンへ行ったときに、不思議な感じ・・・なんて言ったらいいのかわからないけど、こう・・・人間の想像を超えた創造の世界へつながるような感じとでもいうのかい・・・そんな変な気分になったのを思い出したよ。


窓の外へ目を向け大きな深呼吸をした木綿子は、夕食の支度のために部屋の呼び鈴を鳴らす音で立ち上がると、部屋のドアをゆっくりと開けた。




【 第27話につづく 】



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