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第二等労働者の娯楽(前)

 吹き荒ぶ風に乗って、張り詰めた冬の冷たい空気が厚い外套越しに体へ伝わってくる。ドミトーリイは首をすくめて、道路を渡った。どうやら腰の痛みがまた悪化してきたようだ。明日も早朝から作業があるし、さっさと帰宅して寝るにこしたことはないけれど、それでは今日という一日がただ無為に終わっていく。だから明かりに群がる蛾のように、首まで疲労に浸かった体に鞭打ち足をひきずって、また店にやってきてしまう。

 軋むドアを開け、古びたものと埃の匂いの中に飛び込むと、店が抱え込んでいるそれらが外に漏れ出てしまわないようドミトーリイはすぐに扉を閉めた。奥の壁にあるいくつかの汚い窓は全て明かりが入ってこないよう板で塞がれていて、その下にはぼろぼろになった小さなペーチカが突き出している。暖房は長いこと使われていない。それでも厳しい外気から遮断されたおかげか、少しだけ腰痛が和らいだ気がするし、絶えることなく続く毎日の労働からくる不安も幾分ゆるむように感じられ、ドミトーリイはほっと一息ついた。室内の暖かな空気と古書の匂いが混じりあったものを吸うのは案外体に良いのかもしれない。

『それに』腰をさすりながらドミトーリイは思った。『大人しく家に帰ったところで、体の芯まであたたまれるわけでもない』
 当代の建築はどれも、天井と壁の境目のあちこちにすき間——まったく斬新な意匠だ!——がしつらえられていて、あと何日かすれば氷柱つららが顔を覗かせるようになる。

 さほど広くない店内には、電球に照らされて棚が行儀良く列んでいる。入口正面の棚には黒ずんだプレートが掛かっていて、くすんだ金色の文字で『第一等労働者用』と書かれていた。床はそこだけぴかぴかに磨き上げられていて、汚れはほとんどない。イヴァーノフはその棚の前だけを掃除しておけばいいと勘違いしているかのようだった。

 店員のイヴァーノフはいつものように入口脇のレジカウンター奥で寝ていて、ドミトーリイが入ってきたのに気づいた様子はない。第一等労働者用のエリアに立ち入り、棚を眺めてみたところで別に咎められたりする心配はないだろう。それでも従順に秩序に従う自らを鼻で笑いながら、ドミトーリイは右手奥の薄暗い一角へと向かった。目指す先の棚の上部には退色してしまっているけれど、かろうじて『第二等労働者用』という赤い文字が読み取れる。

 第二等労働者用棚の古本コーナーには二人、いつも歴史小説のところで立ち読みをしている年寄りのサーシャと、厚い外套を着込んだ見知らぬ労働者風の男がいた。
「この悪党が! とんでもねえ野郎だ」サーシャがぶつぶつと独り言をいいながら吉川英治を読んでいる。
『サーシャは仕事をしている様子が無いのにどうやって生活してるんだろう? 以前は労働局のお抱えの門番をやっていたという話を聞いたことはあった気がするが』
 視線に気がついたサーシャがドミトーリイの方を向き、歯をむき出しにして、にかっと笑った。
「よう旦那! 今夜は冷える、ここで眠ってったほうがまだましだな!」
 サーシャに会釈を返してから、ドミトーリイはさらに奥の壁沿いにあるCDコーナーへと向かった。壁の上には手作りのささやかな棚があって、場違いなキリスト像がこちらを見下ろしている。

 ぐるっと回り込むと、ドミトーリイの眼前にはプラスティックのケースで一面を埋め尽くされた棚が現れた。一度だけ、暖を取る目的で店内をぶらついている客が居合わせたことはあったけれど、そもそも本とは違って立ち読みができないからだろう、CD棚のあたりには相変わらず客がおらず、全てドミトーリイの独り占めだった。

 ドミトーリイはポケットにしまい込んでいた手を出し、CDケースの背をなぞるようにして「あ」から順番に棚を眺めていった。買い取りが行われなくなって久しい。それにこのご時世にCDを買っていくような奇特な人間がいるはずもないから、前回来た時から棚の内容は変化することもなく、馴染みの並びのままだった。ドミトーリイ自身もCDを買ったりはしない。かつて行っていたようにCDを探す行為をする、それだけで束の間とはいえ、日々の労働を忘れられた。

 第二等労働者用の棚に置かれるべきCDは厳密に決められている。山下久美子、永井真理子などいまさら手に取る必要もないものばかりで、珍しいものやマイナーなアーティストなど、一定の評価がなされなかった物はすべて排除されてしまった。逆に、価値があると判断されたCD——例えば、杏里だとか今井美樹などのように——は、第一等の棚に置いてあるという話をドミトーリイは以前聞いたことがあったけれど、確認はできていない。そもそもドミトーリイのような第二等労働者は、第一等の棚を見る権利を有していないからだ。

 かといって、第一等労働者である裁判官や官吏など——サーシャが言うところの頭の良いお方たち——が、中古CDや本を見に店へやってくることはない。「官吏は杏里を知らない」とはよく言ったものだ。第一等労働者はもっと上等な楽しみに夢中で、つまりは酒を飲んだり、一晩中踊ったりしているだけだった。

 ドミトーリイは何年か前に、一緒になった労働者から都会の方ではもう電子書籍やサブスクという方法が一般的になっているという話を聞いたことがあった。少ない情報の中、苦労してデジタルデバイスを利用するための免許を申請してみたものの、田舎では長い順番待ちのさらに後ろに回されているという噂通り、どれだけ待ってみたところでドミトーリイにデバイスの利用許可はいっこうに下りなかった。だから、ドミトーリイのように娯楽に飢えた田舎の労働者にとっては、この中古屋が最後の砦になっていた。(続)


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