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現代詩を救う提言。小説とのコラボしかないんじゃない?

(以下は僕の2/2、今日のブログからの転載に書き直しを加えた記事です。本音を書きました)

*えっ!? 詩の芥川賞って中也賞じゃないの?


今日は詩界における禁断の話題を語ります。(えっ!?)

現状、詩だけを書くプロ詩人は気にしていないだろうけれど、現代詩は蛸壺に入っています。

つまり、一般からは完全に乖離してしまっています。

だから、詩といえば、一般からはポエマーとして揶揄されたり、やたら高尚なものとして敬遠されるか、ですよね。

(実際、詩の創作教室へ来ている方からさえも、現代詩っぽい象徴詩ものを合評作品を僕が提出すると、「現代詩は……わからない」と90%近くの人に困った顔で言われます。
 そういう方は、近代詩っぽい、自らの心情を気持ちよく語る抒情詩が多いですね)

プロの詩人たちは、孤高の存在であることに満足しているのか、そうした現状を変える活動はしていないと思います。

その典型だと思う1つは、本当は詩界における芥川賞に相当するはずのH氏賞の選考過程が一般には全く知られないまま、

また僕のような詩を書く非プロ詩人にもほとんど見えないまま、ずっと放置されていることに、よく現れていると思います。

だって、一般には、中原中也賞が詩に多ける芥川賞だと誤解されていますよ。

そもそも、中也賞は雑誌『ユリイカ』4月号で特集が組まれ、メイン記事として紹介されますからね。

ユリイカ2023年4月号 特集=牧野富太郎の世界 ―草と花と人々と―

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いや、それどころか、一般には、萩原朔太郎賞より、もしかしたら中也賞の方が上だと思われているかもしれません。

朔太郎賞は、かろうじて文芸誌の『新潮』で受賞作が紹介されるけど、表紙を見ても新潮賞新人賞のオマケ扱いですよね。

以下の図像を見てください。

朔太郎賞は、一番下に横書きが小さくあるだけですよ。

新潮2023年11月号

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確か、この『新潮』号では対談も組まれないし、講評がサラッと数ページあるだけだった気がします。

これなど中也賞が、「ユリイカ」ではその選考過程でのプロ詩人の対談のをリアルに掲載して、その選考基準や見方を伝えてくれるだけに、その落差が非常にもったいないです。

まあ、もちろん『新潮』のメインは小説ですから、仕方ないといえば仕方ないですけど。

*『現代詩手帖』と思潮社の権威

また、僕は小説も書くので、不思議に思うのは、あまり表立って言われませんけど、

詩においては2大グループに分かれていて抒情詩派と、言語修辞派&象徴詩派としてあり、

前者は音楽的でありポエジー重視、後者はときに散文詩的でありつつポエジーが見つけにくい、に分かれていることです。


前者は詩誌「詩と思想」に、後者は詩誌「現代詩手帖」に代表されて、かつ、現状、「現代詩手帖」と思潮社側が大きく権威を持っている。

「現代詩手帖」に依拠する全員が言語修辞・象徴詩派じゃないけれど、概ね、それが代表されている。

そして、そうした流れとは別に、谷川俊太郎と最果タヒが別個に存在している。

それが僕のもつ、現代詩の世界イメージです。

(僕個人は、何度もこのブログで述べているように、抒情詩も象徴詩もどちらも好きです。

 でも、そんな僕ですら、現在の「現代詩手帖」の言葉の垂れ流しや散文もどきで整理されてないように見える入選作品には、ついて行けません。

 面白さがわからないです。

 僕、個人は全部の詩がわかる必要はないし、わからない詩があってもいいと思います。(僕自身の力不足もあるでしょうから)

 けど、そうした実験作品ばかり増えるのはどうなの? と感じています。
 それこそ、自画自賛しているだけで、現代詩の蛸壺化を推し進めている気がします。)


ある詩人は、「現代詩手帖」をエリート主義であり、「詩と思想」はオープン主義だ、と形容しました。

ある意味では、その通りだと思います。

「ユリイカ」は「現代詩手帖」側寄りで、その分家ですよね。


あと、現代詩の危機の2つ目は、ジュンク堂ですら、「現代詩手帖」は大型店以外で置いていないことです。
昔、40年前は一般書店にも置いてありましたよ、思潮社さん。

「詩と思想」などは関西では、あの一番、人の多い紀伊國屋・梅田店以外で見たことはないですよ。
これこそ蛸壺だからですよね。
昔、40年前は一般書店にも置いてありましたよ、思潮社さん。

もう現代詩は滅んでしまいます、というより、現状、詰んでオワコン化しています、から。

*現代詩を救う方策。小説とのコラボ作戦

僕は、何も「わかりやすい抒情詩を書け」といっているのではないのです。

詩を広め普及する努力をするべきだと思っているんです。

例えば、詩が生き残る方策の打開策は、もっと詩と小説が融合すればいいと思っています。

そうすれば、映画やドラマ化される小説が自然に広告媒体になってくれますから。

(この点では、小説はすばらしく強いコンテンツです)

高校の国語便覧なんか、現代詩の扱いはミニマムです。

ずっと中也と賢治と朔太郎、光太郎止まりです。

国語教師はそれが普通だと思っていますが、現代の詩人はもっと危機感を持つべきですよ。
プロ詩人の方々に、危機感、あるんですかね?
(国語教師出身の、有名な詩人の方を、直接、お二人、知っていますが……
僕みたいな実績のない素人からは、ご意見できません。)


最新の国語便覧を見る体験がありますから、総合的な文芸の観点を述べますよ。

短歌・俳句が掲載されてるのに、川柳は皆無です。

柳人の方(そもそも、この言い方も不思議でしょう? 歌人、俳人、詩人は一般語なのに)はどうお思いなのでしょう。

児童文学は、少し触れられますが、小説の一部扱いですよね。

じゃあ、愛好者人口で、短歌、俳句に昔から圧倒的に負けている詩の未来はどうなるのでしょう。
僕には暗澹として陰惨すぎる未来しか見えません。
(いずれ、荒川洋治さんの「美代子、あれは詩人だ。石を投げなさい」どころか、珍獣扱いすぎて、剥製になりかねない。
 もっとも敬愛する詩人、荒川洋治さんの’94年の、この詩から30年です。
 何より剥製化した近代詩人にずっとページ負けしている現代詩って、どうなの?
 現代小説は、漱石・鴎外に対して、村上春樹をはじめ、他の作家たちも年々、便覧で、どんどんページは割かれてますよ。)

詩人メインの方で、俳句、短歌はやらないですよね。

逆パターンはままあるのに。

(この件と総合文芸についてはまた後日に書きます)


小説の伝播力を意図的に利用する。

つまり、書ける詩人にどんどん小説も書かせる。

詩の専門誌で、小説と詩を両方関係させた特集をする。
(『現代詩手帖』’23年6月号の特集「詩と小説〜二刀流の現在」は良かったです。)

何よりも、一般文芸誌に、そのコラボ特集を年1回【定期的】にやらせる。

僕は、それ以外に、現代詩が生き残る道はないとも思っています。
文芸誌自体、読まれないので、苦しい企画ですが。
少なくとも、町内会の会報レベルの発信力しかない、詩誌よりもマシでしょう。

高校の授業で、掲載されている中也と賢治の近代詩すらスルーされて、授業として詩が扱われなくなって、もう久しいでしょう。
若い詩人の皆さん、詩の授業ってありましたか?

現代詩は、メインの科目の教科書からは教材としては完全に消えています。
サブにはありますが、授業されてないでしょう。


でも現状、小説家が自ら率先して、詩を書くことはほとんどないでしょう。
小池昌代さんのような二刀流の方は別にして。

詩を詩人だけしか読まないのは、大変勿体無いし、残念なことです。


また、詩と小説、両方、書く人は、もともと詩人で詩を描いていた人がたまたま小説も書いている、といったもので、

ほとんどの場合、小説を書き出すと、詩人は詩の世界へは戻ってこない。


たぶん、定期的に詩集を出されている小説家は、小池昌代先生だけですよね。

他の方は、若い人で小説を書く方も、依頼されて書いているだけな気がします。

それじゃ、詩の未来は開けないと思うんです。
明治期に、正岡子規が出て、近代俳句と短歌を生み出したように、現代詩を
再生リボーン
させる。

そんな作戦・ミッションを誰かが展開すべきだ、と僕は思います。

ここまで言い切ったから、恥ずかしいけど、ここに書きます。

僕は、詩と小説で新人賞を両方、取ったら、そんな活動をしてみたいです。
(一部、若い人向けに、すでにそういう活動をしていますが)

ああ、恥ずかしい。
力なき者が、何を書いても無駄だ。

でも、もう私利私欲で頑張れる時間もエネルギーも、歳をとりすぎた僕には残されていないので、
せめて、大きなもののために役立つために、頑張ろうと思っています。


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