見出し画像

子供と過ごしたクリスマス

クリスマスの2日間を子供と過ごした。
「クリスマスだから」と言うのではなく、たまたままどかが「とうちゃんのおうちにとまりたい」と言った日が、その2日間に当たったのだ。
おまけに子供を預かる場所が新宿になったので、クリスマスらしいご馳走をしてあげられると思った。
まどかとお母さんをつばめグリルに連れていった。
いかにも家庭の情愛を司る蟹座の満月らしい出来事である。

子供は色々なことを感じている。
感情と直感は未分化のまま一体になっていて、独自の表現を取る。
とうちゃんには、格好良い所を見せたいらしい。
その日は重いリュックを小さな背中に背負って登場した。
一人前に立派な「ちからもち」であることを示したかったようだ(もっとも、道中ではずっと母親に持たせていたというけれども)。

子供は、前回私に指摘されたことや叱責されたことをよく覚えていて、今回の自分はその時より成長したことを伝えてくる。
抱っこの時にちゃんと掴まることや、お風呂で頭を洗えるようになったことを、教えてくれた。
背伸びをし、認められたいという思いがあるようだ。

心理学者のエーリッヒ・フロムは母の愛を無条件的、父の愛を有条件的なものとして定義した。
初めてその著書を読んだ時の私はまだ全く物知らずで、愛はすなわち無条件的なものだと思っていた。
しかしやがて、すべてのことは陰陽双極から送り込まれる絶え間ないエネルギーの相互作用によってのみ正しく為されることを学んだ。
要するに、どちらも必要なのである。
聖俗、明暗、深浅、雌雄、正邪…
どんなに良いものでも、どちらかだけでは必ず破綻する。
どんなに悪く思えるものも、全体の中で必ず役に立っている。


私に対する時、子供はきっと条件付きの愛を感じている。
フロムの言葉を借りれば「どんなあなたでも愛する」という母親の愛とは違って、私はきっと無自覚の内に、身体言語によって、テレパシーによって、また実際の言葉によって「おまえがこのようである限りにおいて愛する」というメッセージを伝えている。
ただしそれは私の信念でもなければ方針でもない。
男性の肉体が発している波長であり、それが子供の(未熟ながら)男性の肉体との間で共鳴しているのだ。
まどかはその条件を満たそうと子供ながらに願っている(気が向いた場合には、という話だが)。

初めてまどかが私の家に一人きりで泊まったのは、2年前のことだった。
つまり離婚して間もない時のことだ。
それまで母親と一緒に毎週か隔週で泊まりにきていたので、自然な流れで行けえるかと思ったが、駄目だった。
夜中に目を覚ますと、母親がいないことに強い不安を覚え、泣き出した。
ついでに尿意も催した。
暗闇の中で、涙と鼻水と小便を垂らしながら母親の許に帰りたい帰りたいと叫んでいるーー
人間の根底にある深い真実を見た思いだった。
悲しく、頼りなく、愛を求めている動物。

それ以来、一人で私の家に遊びに来ることはあっても泊まることはなかった。
しかし歳月は子供を育てる。
10月の沖縄旅行で、やや不安ながらも彼にとっての「おとまり」という偉業は成し遂げられた。
それで自信がついたらしく、自分の口から、「とうちゃんのおうちにとまりたい」との言葉が出たのだった。
興味深いことに、それはまどかの母親の、私に対する思いがある氷解を見たその日のことだった。

複雑怪奇なこの身の上、現実を受け入れるために支えになった言葉が二つある。
一つはマザー・テレサの言葉、

「人はしばしば不合理で非論理的で自己中心的です。それでも赦しなさい」

もう一つはアイリーン・キャディの言葉、

酷いことをされたと思っている相手を赦したつもりでいても、もしその人に冷淡であったら、私はその人を本当に赦してはいない。私の感情を傷つけた相手を赦したつもりでいても、もしその人を避けていたとしたら、私はその人を本当に赦してはいない。真の赦しとは、そのことが起きる前と同じように、相手に対して感じるということである

断っておくと、私は何も自分が一方的に酷いことをされたとか、別れた妻のことを「不合理で非論理的で自己中心的」と思っているのでもない。
これは多くの場合、「どんな痛みがあろうと」というくらいの意味合いである。

私の負った傷はあまりにも深かったので、私は相手を赦し現実を受け入れ、それでも前を向くということが本当に出来るのだろうかと疑わしかった。
相手を責め、過去にしがみつく方がずっと楽だろうということは明らかだった。
70歳になっても続けていられるくらいには。

赦すというのはなんと難しいことだろう。
赦せない相手は切り捨てて二度と会わないようにし、「私は赦したんです」というフリをするのはたやすい。
しかし私の場合そういうわけにはいかなかったので、心から赦すことを学ばなければならなかった。
それは私の、子供に対する最大の義務だった。
自分の父親が自分の母親を避け、嫌っていると感じたら、子供はどんなに傷つくことだろう。
そんな風景だけは見せたくない。
おかげで、私は人生最大の挑戦をすることが出来た。
この心の狭い私が、「赦す」ということを学ぶのだ。

やがて、別れた妻に対して「そのことが起きる前と同じように」温かく接することが完全に出来るようになった。
先日、私はあることで、彼女を心から称賛し、応援し、激励した。
そこには演技も嘘もなかった。
人と人として向かい合い、その時心に湧いたことに対して、どんな過去にも感情にも、邪魔をさせなかったのだ。
別れた妻はそれを受け取り、大きな感動に包まれたと伝えてくれた。
母子は本当に繋がっていると思う。
その日の夜に、「とうちゃんの家に泊まりたい」と子供が言ったというのだから。

現実は奇妙でよく分からない生き物であり、それを捕まえることは出来ず、ただこちらが受け入れ、こちらがその都度、形を変えていくしかない。
しかしそれでも、どんなに歪でも、〈私の現実〉は必ず〈私の心〉に適合するように設定されていると思う。
それは絶対に間違いのない神慮なのだ。

別れ際、子供は悲しさや寂しさを見せまいとして、代わりに癇癪やつれない態度によって感情を代償していた。
このように、課題はまだまだ続くけれど、全ては良い方に向かっていると信じている。

この下方、複数の線路が走る。「あれはなにせんかな」。世間知らず過ぎて、答えられない父親であった。

【スケジュール】
12月27日(水)蟹座満月ヒーリング

12月31日(日)10時ー真呼吸会(喋ります)

【メニュー】
①カウンセリング 10000円
②ヒーリング 10000円
③リモートカウンセリング 7000円
④遠隔ヒーリング(お布施→詳しくは
ヒーリングアクセサリー「プレローマ」36000円

【お問い合わせ下さい】
①LINE:atelierkoshiki
microcosmo.healing@gmail.com
③090-9309-1217(留守電にメッセージを残して下さい)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ホームページ:https://www.microcosmo-healing.com/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?