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雪の高野山


三連休の土曜日はお天気も良く道路の凍結などもなかったので高野山に行き、今回は奥之院にご祈祷をお願いしてきました。

この1ヶ月というもの母が体調を崩し、看病と介護で奮闘です。
加齢黄斑変性という眼の病気のため検査を近くの大学病院に受けに行ったことがことの始まりで、立春まもない寒い時期、おまけにコロナやインフルエンザが流行っている最中にウイルスがうじゃうじゃいる大学病院は危険極まりなかったのです。

杖をつきながらもゆっくり歩ける母が車椅子に乗るのは嫌だというのでそのまま歩かせました。
しかしながら広すぎる病院内を普段歩かない母には無理がありました。
何度も「目が見えなくなる前に心臓が止まってしまうわ。」と休憩しながら進みます。母は想像以上に体力が衰えていることに私は愕然としました。

翌日より熱があり、いつもお世話になっている往診の先生に来ていただいたところ即「コロナです」と診断されました。1週間経っても熱は下がらず、コロナだけではなく、どこかに炎症があることが伺えます。処方箋を薬局にファックスしていただき、私がお薬を取りに行くということが繰り返されます。

母の持病
母は60歳を目前に大動脈乖離で8時間以上に及ぶ手術を受け、それ以降人工血管です。
10年後、70歳で父を肺がんで亡くし、2年後に心不全で肺に水が溜まり、溺死寸前で現在も診て貰っている医師に助けていただきました。
絶えず体重をチェックしておきませんと心不全に気付くのが遅れます。
おまけに心房細動も加わりました。

肺がんで亡くなった父からの教訓
70歳でこの世をさった父は変な咳は出ていたものの元気な体で検査入院して以降、人生が変わりました。私は標準治療(抗がん剤、放射線)は受けないように何度も何度も説得しました。今ほどの知識は無かったので納得させるだけの説明に及ばなかったのが悔やまれます。父は「俺は病院に行く」と言って闘志満々で病院に行き、8ヶ月で身も心もズタボロになって亡くなりました。
放射線治療で食道が焼け焦げプリンすら飲み込めない状態になり、一度だけ私に弱音を吐き、抗がん剤で黒々としてフサフサしていた髪は見事に抜け落ちて帽子を被りました。
レントゲンで見る父の肺のすぐ下にはリンパが写っていて「肺に放射線(核)を照射して抗がん剤(毒薬)を打てば必ずリンパ管が毒素を土管のごとく身体中を巡らせるだろう…」と確信していました。
その通りになりました。
凄まじい速さで脳や前立腺、腰、肝臓と身体中に癌が広がりました。
痛みに耐えかねた父にはモルヒネが用意され、モルヒネを打つと目玉が両端に離れていくことに驚きました。モルヒネを打つ患者は2度と目が覚めないのではないかという恐怖があって眠らないそうです。
父に「私が約束する。必ず目覚めるから私を信じてゆっくり眠るといいよ。きっと体も回復するよ。」とう根拠のない嘘をつきました。
父はその嘘を信じて眠り、目が覚めた時にはホッと安堵しました。

余命宣告1ヶ月もない患者に「痛みは放射線が効くんです。」と医師は言います。
私は「照射してどれくらいで効いてきますか」と質問しました。
すると「1ヶ月くらいです。」
と悪びれもなく答えました。
そして映画でよく耳にする「チェックメイト」という言葉が頭の中を木霊します。
父の担当医の部長医師に「分かりました。今日限りで全ての治療を終了させていただきます。」と言いました。
すると「分かりました…」しばらく時間を置いて「自分も親が同じ立場に置かれたら、恐らく娘さんと同じ決断をするでしょうね」と言いました。
またしばらく考えて咀嚼するように「ここは急性期型の病院なので何の治療もしない患者さんにいて貰うわけにはいかないのです。」と言います。
こんな状態にしておいて、これ以上治療しないのだったら出ていってくれというのです。
ですので「次の病院が決まるまではここに置いてください。このような状態で家では看病ができません。」と言いますと看護師長さんを呼んで「分かりました。大丈夫だよね」と看護師長さんに許可を求めるように仰いました。
看護師長さんは少し戸惑ったように見えましたが父は結構な有名人になっていましたので特別なお計らいでした。
私の住まいの近くのガラシャ病院にすぐさま連絡を入れました。
私は時が来たらホスピスで最期を迎えて貰いたいと考えていました。
母校の先輩や同級生がボランティアで人生最期の方々に寄り添うと言うご奉仕しているのを知っていましたので迷いはありませんでした。
しかしながら1ヶ月はおろか、この2週間後に父は亡くなりました。
ちょうど、亡くなった1月4日はガラシャ病院の入院面談の日でした。


母にはそんなことがないように、できるだけ多くの検査や緊急を要しない治療はさせないようにしてきました。
だからこそ、このように建て付けの悪くなった心臓であっても機嫌良く動いてくれている気がします。
心臓の人工血管は当初は10年は持ちますと言われていましたが30年近く持っているのです。
見える方の目まで白内障の手術をしましょう。
加齢黄斑変性は良くはならないけれど最悪失明しないために注射をと言う話でしたが失明しないと言う保証はありません。
それは必ず失明するということでもありません、
「この病院では1日100件はしていますからどうということはないですよ」とお医者は言いますが眼の造影剤や手術の恐怖というリスクは今の母の心臓には絶えきれないと訴えている気がしてならないのです。それに9年前に同じことを言われてした検査が元で、とんでもない災難に見舞われた母です。

母が何度も大学病院で呟いていたこの言葉が母の心の叫びだったのかもしれません。
目が見えなくなる前に心臓が止まってしまうわ。」

そこで積極的に眼の治療はしないことにしました。
軽く検査だけだと思って病院に行っても、高齢者には何が起こるかわからないからです。

何とかバイタルも2週間以上かけて元に戻りました。
そこで連休の中日に高野山にお参りとお礼とご祈祷をお願いしに行きました。



翌朝妹は母が笑いながらゆっくりゆっくりとお大師様と共に高野山へと山道を歩いている姿を夢で見たと言います。正に「同行二人」だったそうです。母には人間の尊厳を最期まで保ちならが生きて貰いたいと切に願っています。
ちなみに我が家から高野山大門まで、カーナビでは108キロと表示されます。煩悩の塊だなと思いながらもお参りさせていただけることに感謝です。




御廟橋を越えると今でもお大師様がおられます

南無大師遍照金剛

合掌


金剛峯寺奥之院の御朱印

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