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教室のこと

週2回自宅で、また外の絵画塾や市の教養センターのサークルでも絵を教えている。昨日もとあるデッサンサークルの授業、講評の日だった。
モチーフはテーブルに濃紺のハンドバッグ、黄色と紫と淡い緑のフェルト風マフラーをあしらい、赤いリンゴを添える。鉛筆で描いてみる。
Tさんのマフラーが質感良く、色調も再現できていたのを見て
「絵としてはすごい、でも私が見たマフラーとは違う」とKさん。
素晴らしいコメントを頂いた。

「これは黄色と紫と緑のマフラー」と誰もが思うのは、群れで生きるために
支障のない、共通認識としてのマフラーだ。しかしながら、TさんとKさんがそれぞれ「見た」マフラーは厳密な意味で同じであるはずはない。見たと思ったマフラーは、経験も脳ミソ自体も他人とは違う、その人の脳の中で創り出されたイメージでしかないのだから。それを図像として比較する術はないと思うが、表現としての個体差が顕著に現れる点、そしてその差異を認め合える点が美術、芸術の興味深い特徴ではないだろうか。

デッサン、水彩、油彩などの絵画技術の指導にあたりながらいつも思うことがある。
形も色も、人によって感じるところが皆違うのなら、教えられることは
一体何だろう?

絵を教えるということ。
これは、形、色彩を再現するための考え方の例を示すことを通して、感じることを形にしたいと思う人の手伝いをすること。

これが正解ですよと提示する事では決してない。大変もどかしい仕事ではある。
正解は描きたいと思う人の心の中にしかないのだと思う。


glasses Ⅱ.  cm.20x20. watercolour on paper.  2021. Ryo NAKANISHI


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