見出し画像

部下と上司の膝栗毛⑧

落ちる時は一緒に

 初めてのジェットコースターと言えば、どこが主流なのだろう?
 とは言え、小学校低学年の、それもまだ未経験の子供を、絶叫アトラクションで有名な某富士山近くの遊園地に連れていく親というのも、中々に常軌を逸しているのは確かだ。 

 来瞳芳香(くるめ よしか)は、絶叫アトラクションが苦手だ。
 確かに、人生で初めて乗ったジェットコースターが富○急のフ○ヤマだったのは大きいが、根本的な原因は、とあるホラー映画の影響だった。ジェットコースターの事故で死ぬはずだった男女がひょんなことから助かったものの、乗っていた席順に次々と不審な死を遂げる。
 それの何が最悪かと言えば、人間がまるで豆腐のように潰れたり切断されたりするのである。スプラッターも行き過ぎると胸焼けする。
 芳香自身、ちゃんと鑑賞していたわけではなく、テレビのチャンネルを回していて、偶然コースターが急降下でレーンから外れて落下する場面を見てしまったのだ。そこからのフ○ヤマだ、傷は深かった。

 


  1月ほど前のこと。
 早番の仕事終わりに社宅のポストを覗いた芳香は、純粋に驚いた。手には当選ハガキ。賞品は某夢の国のペアチケットである。

 入社する前、こんな月1回のペースで夢の国に行くことは考えられないことだった。脚本家として所属している劇団の公演、同人誌即売会と、創作活動が日常生活だった芳香にとって、誰かと遊園地、ましてや夢の国に行くなんてことは別世界の話だったが、人生何が起きるか分からない。配属先にコアファンが3人もいるとは夢にも思わなかった。
 さて、彼女がどうして当選ハガキを手にしているのかと言えば、それこそ本当に気紛れだった。
 朝食と遅番終わりの夜食に、ヨーグルトを食べるようになったのはここ最近のことだが、買い込んでいたメーカーがたまたま夢の国コラボのキャンペーンを開催していて、いつの間にか応募枚数に達していたから、送ってみただけこと。まさか当たるとは露ほども思っていなかったのである。
 ペアチケットというからには、2人分なわけで、せっかく当てたのだから使ってしまいたいのが芳香の本音だった。

(……誰を誘おうか)

 そうは思ったものの、誰よりも先に脳裏に過った人物に芳香は思わず苦笑した。
 同期のミライとは休みが被りづらい。今月のシフトは案の定、一度もミライと休みは被っていない。だからなのだと、思い込むことにした。

(それにしても上司と2人で遊園地って……)

 他にも誰かを誘うという、一般的な考えがこの時、どうしたわけか芳香にはなかった。 
 
 
 



 芳香は絶叫系のアトラクションが苦手だ。予測のできない恐怖。不意討ちに訪れる恐怖。しかし何よりも恐れたのは単に、あのホラー映画のワンシーンのせい。
 急降下の際に襲われる浮遊感が、関連付けてしまう、ある意味トラウマになっていた。だが、入社して頻繁に夢の国に足を運ぶことでだいぶ耐性はついてきた。
  そう思っていたのが、数分前のこと。
 海に面したシーエリア。そこに聳え立つおどろおどろしい塔。
 とある冒険家が遺跡から持ち帰った人形の呪いによって、最上階からエレベーターで落下した。そんな世界観のアトラクションである。ようは足場のあるフリーフォールだが、乗る前から芳香には一抹の不安があった。世界観や設定に忠実なのはこのテーマパークの利点ではあるが、作り込み過ぎて、とてもじゃ空想の話だと思えなかったのだ。

(これ、やばいやつだ……)

 心拍数の上昇、それに伴う吐き気。手先から熱が引き、動き出す前から感覚がない。
 眼前には夜景が広がっているが、今の芳香には薬物中毒者の絵のように極彩色でサイケデリックなものに見えて仕方がなかった。先程乗った火山ものは景色を見る余裕すらあったというのに。
 それから3分ほどの間、芳香は今まで体験したことのない類いの恐怖に襲われていた。この身に現在進行形で起こっている現象と脳内で想定しえる事象のズレ。それは次第に神経系にも影響し、申し訳程度に付いたグリップを果たして自分は握っているのか否かすら、彼女には理解できていなかった。
 室内は暗いはずなのに、視界は異様に白かった。



「――来瞳?」

 名前を呼ぶ声で気づいた。
 眠りから醒めた時のような感じではなく、霧が晴れたような感覚に〈安全装置〉が発動していたことを知る。

「……も、がみさん?」

 自分の口から洩れた声があまりにも掠れていて、芳香は驚いた。
 部屋が明るくなっていて、芳香と最上、それと心配そうにこちらを見るスタッフ以外、既に人はいなかった。
 俯いたまま微動だにしない芳香の異変に、最上は当然気づいたようで、彼女が足元に挟んでいたショルダーバッグを手に、様子を窺っていた。。
 よく見ると、息は荒く過呼吸気味で手足は異常なほど震えていた。

「とりあえず出ようか……歩ける?」

 そう訊ねながらも、最上は既に彼女のバッグを肩にかけ、弱々しく立ち上がる体を支えると、何とか出口付近のベンチに腰掛けさせた。
 座り込んだ途端、芳香は蹲り、必死に呼吸を整えようとする。
 体が、全身が異様に重かった。体を起こしているのもやっとで、できることなら横になりたかった。最上がしゃがみこみ、顔を覗き込んでくるのが視界の端で分かったが、反応する余裕がない。
 端から見ても、芳香の異常は明白だった。瞳孔は開いているが、そこに光はない。もとからの色白の顔からはますます血の気が引き、今にも死んでしまいそうだ。
 身体中の穴という穴が開いているような感覚があったが、自分が今どんな顔をしているのか知る由もない。それでも俯いているせいで、床には雫が落ちる。

(私、今足ちゃんと着いてる? 息してる? )

  名前を呼ばれた時、最上の声は聞こえていなかった。ただ終わったことには気づいていて、立ち上がろうとはするものの、四肢に感覚がない。後頭部が異様に熱くて、膝が震えて仕方がない。そもそも膝間接から下の感覚や腕や肩の実感がない。自分が息をしているかすら分からない。
 芳香ですら、初めて体験する状態だった。それは初めてジェットコースターに乗ったあの恐怖とは別物だった。

「……最、上さん」

 何とか声は出るようになり、芳香はそこでやっとこちらを心配そうに覗き込む最上を呼んだ。

「手、握ってても、いいですか?」

 だいぶ楽になってはきたものの、体の感覚はまだ戻らない。何かを掴んでいなければ、意識が遠のいてしまいそうだった。

「うん、いいよ」

 拳を開いたり閉じたりを繰り返す左手を最上はそっと握った。腕を持ち上げることすら、どこかぎこちない芳香にはありがたい。一回りも大きい手は温かい。 指先からじんわりと広がっていくようで、全身から強張りが抜けた。

「制限なしの期間に乗るべきじゃなかったな……。迂闊だった」

 ため息と共に呟かれた言葉は独り言のようだった。
 
「心配かけてごめんなさい……」

 声も出せないほどだった時に比べて、だいぶ回復してきたが、まだ体の感覚がおかしい。特に肩や背中が変にフワフワする。膝から下の感覚がない。

「気にすることなんてないのに。今日は二人だけなんだし、ゆっくりしていこうよ」
 
 そう言って、最上はベンチの背凭れにもたれかかった。


 それから問題なく立ち上がれるようになるまで、十分ほどかかった。全身の感覚を取り戻してからも、鈍い頭痛が残った。
 
 
 

 


 まるで黒死病やペストのように、謎のウイルスが猛威をふるい始めて、1年が経った頃。
 遅延証明書のような軽さで発出される緊急事態宣言に、夢の国もまた長期の休業、時短営業に追い込まれていた。それによる影響は大きく、イベント抽選よろしく、チケット販売の倍率が格段に上がった。

 特に営業再開後にオープンした新エリアを抱える陸の方は、販売開始から秒で埋まる始末。
 行き当たりばったりの休み被りで予定を組む、最上と芳香にとっては苦しい闘いである。
 そんな激戦の末、希望休を出すという賭けのもと、希望の日時にチケットを手にした。

 平日ということもあり、多少家族連れは目立ったものの、ピーク時のような混雑とは程遠い。
 ショッピング街のアーケードを通り抜け、最上は園内を時計回りに攻めていった。

「滝から落ちてみようか」

 最上が楽しそうに言うものだから、芳香は必死に笑みを取り繕ったが、それがあまりにも引きつっていたようで、彼は吹き出した。
 芳香が急降下急上昇系のアトラクションが苦手なのを知っていての提案なのは、明らかで、思わず最上の脛を軽く蹴った。

「落ちるって言ったって、1回だけじゃない?」
「その1回が慣れないんですよ!」

 ただ落ちるわけではない。
 そこは夢の国らしく、ストーリー仕立てで進んでいくわけだが、悪戯好きなウサギがキツネと熊から報復に茨の谷に落とされそうになる。
 それに合わせて、暖かみのある森の景色から一転、薬物中毒の幻覚症状じみた極彩色の光景に変わる。
 
 極めつけには、落下地点へ上がっていく最中、頭上の動物たちの発言が不穏な色を帯びていく。

『ウサギどんは笑いの国だと言っていたのに、何でウサギどんは笑ってないんだい?』

(こんな間接的に精神的ダメージ与えてくる言葉ある? 天才か!?)

 落ちる直前の「頼むから、茨の谷には落とさないでくれ」より衝撃が強い。

「ーー顔面蒼白じゃん」

 前を歩く最上に付いて歩く間、芳香の顔からは血の気が失せていった。 
 それこそ誘導灯と所々にライトアップされたモニュメントの光の中でさえ分かるほどだ。
 今の芳香には、笑いを含む最上に言葉を返す余裕すらなかった。

 そうこうしている間に、乗り場に着き、キャストに待機番号を指定され、ゲート前まで来た。
 いよいよ芳香は屋内に入ってから、一言も声を発しなかった。
 幸いにして、感染症対策でコースターごとに間隔が空いているため、渋滞していたが、それにも限度があるわけで、2人の番はすぐに回ってきた。

「手、震えてるじゃん……」

 下ろされたセーフティーバーをぎゅっと握る手が、小刻みに震えている。

「手握ってようか?」

 芳香が頷くよりも前に、最上は片手で真っ白になった小さな手を包んだ。

「冷たっ! 超震えてる……」

 自分の手をすっぽり包み込む大きな手。
 それによってもたらされる熱に、芳香は少し緊張を和らげた。


 コースターが動き出してから、最上は芳香の安心させるために、それこそ公式アプリ顔負けのナビゲートをしてみせた。
 毎年、高額な年間パスポートの素をとってるだけあって、コースの特徴を全て把握していた。
 最上の配慮もあって、問題の箇所に至るまでは芳香も世界観を楽しめた。

「大丈夫。落ちる時は一緒だから」

 今までとは異なる傾斜角度で、2人だけのコースターは徐々に上っていく。
 周りからはあの言葉たちが飛んでくるが、隣で最上がボソリと呟いた言葉に、芳香の意識は引っ張られた。

(なんか今、メリーバッドエンドみたいなこと言われた気がするんだけど……)

「ほら、落ちるよ!」
「えっ」

 それはもう完璧なタイミングで最上が声を上げ、つられて芳香が前を向くと、滝壺の下が眼前に飛び込んで来て、一瞬の浮遊感すら感じぬまま、勢いよく水しぶきが顔面を襲った。




「ーーいい顔」

 コースターから降りてからも、最上は芳香の手を握ったままだった。
 あの落下の瞬間に撮影された映像を、出口前のモニターで探していると、最上の合図のおかげで、2人揃って前を向いた映像を見つけた。
 最上に関してはシャッターチャンスを完璧に捉え、一部の狂いもなくポーズを決めている。
 芳香も目を瞑ることなく、口元はマスクで隠れながらも、なかなかに楽しそうである。

「トラウマ増やさなくてよかった」
「楽しい実況のおかげですよ」 

 そう答えながら、繋いだままの手を一瞥する。
 ゆっくりと熱が戻りつつある芳香の手に反して、大きな手はずっと変わらず温かい。
 
「そろそろ予約の時間かな……」

 ジッパディ-ドゥーダを鼻歌混じりに歌いながら、最上は迷いのない足取りで手を引いて歩く。離す素振りもなく、手を繋いでいることに触れもしない。
 
(最上さんがほどくまで、このままでいいか)

 楽しげな最上を眺めつつ、芳香もひっそりと鼻歌を歌った。


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?