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「楽しかった冬休みの思い出を描いてみよう」の落とし穴とその在り処/本田先生の部屋

絵画教室 アトリエ5の小学生/中高生/大人クラス担当・本田雄揮先生による連載。vol.3は「テーマの設定とマジョリティ」について。

〔BGM〕

※この連載はBGM付きです。いつもより小さめの音で流しながら読んだり、読んだ後の考えごとのお供にどうぞ。

①或る「楽しかった冬休みの思い出」の絵

「楽しかった冬休みの思い出を、自分で考えて描いてみよう。」

昔、こんなことがありました。
私が小学校で図工の講師をしていた頃の話です。確か3年生の授業、季節は1月でした。
その日の授業は「楽しかった冬休みの思い出」を描くというものでした。このような生活画の場合、何を描いていいか分からない、という子は少なからずいるのですが、クリスマスやお正月や旅行など、短くもイベント盛りだくさんの冬休み、皆迷うことなく自分の「楽しかった思い出」を決めることができていました。

「クリスマスにこんなものもらったよ!」
「お正月におせちをたべたよ!」
報告を交えながら、皆で楽しかった思い出を楽しい笑顔で描いていきました。

時間が経過し、授業も中盤を超えた頃、一人の女の子が絵をもって私のところへ来ました。私の所感では彼女はややエキセントリックなタイプでした。完成にはちと早いな、と思っていたら、彼女は私にこう言ったのです。

「ナグッテルポーズが上手く描けない」

…え、なんて?

「ナグッテルポーズ描きたい」

ナグッテルポーズ…

一瞬言葉の意味を見失いました。よく訊いてみると彼女が描きたいのは「殴っているポーズ」。随分荒々しい。年末の格闘技番組か、と思ったらそうじゃない。彼女本人が実の兄を実際に殴ったシーンとのこと。冬休み中に些細なことから兄妹喧嘩となりエスカレート、今までの鬱憤もありついに爆発、兄の左頬に一発渾身の右フックを入れたことを描きたいと。
内心の焦りを隠しつつ、私は何故それを描きたいのか尋ねました。もっと平和的な、皆でニコニコ笑っているようなものもあろうに。

「だって一番“楽しかったこと”でしょ?先生言ったから」

殴ったのが一番楽しかったの?

「うん、迷ったけど。先生、描いていい?」

…なるほど、…よし分かった描くがよい。

そして彼女は「冬休み、自分が一番楽しかったこと」の絵を仕上げました。
私にモデルとして右フックのポーズをとらせ、昂る筆で関節に囚われずに右腕をスピーディに描き、混ぜ色で丁寧に作られた赤色を紙面に飛び散らせ、兄の歪んだ顔から吹き出す鼻血を再現しました。
描いている最中、周りの子と比べあまりにも異なるテーマを選んだことに気がつき、流石に不安を覚えたらしく、何度か私に「ホントにナグッテル絵でいい?」とおずおず尋ねに来ました。私はその度に同じ台詞、一言「いいんだ」と述べ、そして彼女はその度、はにかんだ表情を浮かべ席に戻り揚々と作業を再開しました。

やがて授業終了が近づき、皆完成した絵を私に見せにきました。

クリスマス、プレゼントを開ける朝。
お正月、ごちそうを囲む家族。
ゲレンデ、上手く滑れた初めてのスキー。
自宅で兄の頬に右フック。

その絵を前に私と彼女は多く言葉を交わさず、ただ笑っていました。はにかみ笑いではありません。もしかしたらどこか共犯者めいた不敵な笑いだったかもしれません。ニンマリと。いつまでもニンマリと。笑いあっていました。

閑話休題。


②小学校におけるマジョリティとマイノリティ

これは、私が美術を教える立場になってからの記憶の中でも、比較的よく思い返す話です。
何故なら、懐かしい気持ちと共に、私にとって忘れてはならない教訓が含まれているからです。
その教訓とは何か、が今回のテーマですが、それを話すにはまず私が「美術教育におけるマジョリティ」について思うところがあることから説明しなければなりません。

「マジョリティ(多数派)」と「マイノリティ(少数派)」という言葉があります。

民主主義社会において、マジョリティは明らかな優位性を保ちます。さらにマジョリティはそう足り得る理由として、多くは同意が得られやすい「安全性・平等性」が謳われています。それは現状、どのようなコミュニティ、たとえば小学校だとしても、です。

小学校におけるマジョリティは何か、というと、ここからは私見ですがひとつは「ポジティブさ」ではないかと思うのです。楽しい思い出、前向きな言葉、夢みる心、大好きな仲間、未来への希望、明日に向かってジャンプ。多いですよね、こういうの。はい、安全で平等、な訳です。ちょっと嫌な言い方になりましたね。個人的にそういうのに対して苦手意識があるからかもしれません。いや、羨望かな。
一方マイノリティは何か、というと、マジョリティがポジティブさならば単純にその逆「ネガティブさ」となります。これは積極的に忌避されます。「悔しさをバネに頑張ろう!」とはいうけど「悔しいまま再起不能となれ」という指導はない訳です。

③マジョリティの落とし穴

さておき、学校教育におけるマジョリティの重要性は説明不要、承知の上でのことですが、殊に図工、美術に関していえば、その思想の過度とも思える浸透はなかなかに問題で、危険性を孕んでいる、と私は思うのです。

どういうことかというと、ここで最初の話、「楽しかった冬休みの思い出」になります。

まず注目すべきは、テーマ設定に「楽しかった」を冠しているということ。次に「楽しかった」という感情を、教師がマジョリティの価値観をもって伝えたこと。そしてその「楽しかった」について、教室にいる先生も子供達もほとんどが不思議に思わなかったこと。

言い換えると無自覚な「選択権の放棄」という問題が生じてくるということです。

「楽しかった」という感情を表す言葉は、小学校においてマジョリティとして扱われます。楽しくあろうという行動基準は、様々な活動のそこかしこに見受けられます。皆さんも日記などの文章をいつも「楽しかったです」で締めくくりませんでしたか?もちろん、図工、絵を描くことも御多聞に漏れず、です。
そのマジョリティである「楽しかった」がテーマ設定の言葉として含まれているということは、即ちマジョリティ足り得る絵を描こう、と言っていることとなります。
まずその前提がある。

そして、この「冬休みの思い出」の前の「楽しかった」、何を隠そうこの私がつけ足したのです。今思うとちょっとした恐怖ですが、当時は学校社会の習わし、考え方に倣って「学校で絵を描くのだから(マジョリティである)“楽しかった”絵が無難だろう、ニコニコ笑顔で描くべき。他でもそうなのだから。」という思索、いや今考えると思考停止ですね、その考えの下「楽しかった」を冠した訳です。当たり前と思われていることを、右に倣えとそのまま伝えていたのです。

これを基に冒頭の私の台詞を訂正しましょう。実は私は子供にこう要求していたのです。

「安全で平等で多くの同意が得やすいポジティブな思い出を、自分で考えて描いてみよう」

はい怖い。これのどこが自分で考えて、でしょうか。私は、暗に当たり前を強要していたのです。

さてそれを聞いた子供達は、どう感じるでしょうか。勝手に描く内容が決められた!と不満を抱くでしょうか。いいえ、抱きません。特に何も感じません。何故ならそれが当たり前だからです。慣れているのです。マジョリティである為に押さえるべき要点を、無意識(で、あると思います)の内に理解し、それに長けてきているのです。だけどただそれだけです。本当に「楽しかった」ことは、一体何なのか、考える術は持っていない。というよりも初めから教師に預けた状態になっているのです。それを別段不思議とも思わない。

これが「選択権の放棄」です。
美術において絶対的に重要で作品制作の柱である自らの感情や意志の「選択」を教師が行い、子供達はそのまま教師が仕立てた同意が(一体誰のでしょうね)得られやすい安全で平等な「マジョリティ」のフィールドで、仕組まれ限定された「選択肢」の中から、自分で選んだかのように信じる。はい震える、恐怖で。

マジョリティ≒ポジティブは聞こえが良い、とても心地が良いものです。故に、陥り易い罠もあるということです。

④女の子の問いかけ

「美術教育におけるマジョリティには落とし穴がある」。
その上でさて、最初の女の子の話となる訳です。

忙殺を理由に思考停止でマジョリティを礼賛していた私、それが良しとされる教室で、そのエキセントリックガールは何と言ったのでしょうか。

「ナグッテルポーズ描きたい」

ご理解頂けますでしょうか、この異質さ。
マジョリティではないことは一目瞭然。
暴力はタブーの代名詞。
かといって安易な、ただ単に大勢に反抗したいからという動機に基づいたマイノリティということでもない。(蛇足ですがタブーをおかせば表現だと思っている軽薄な思想も美術にはありますね。)

それが私に与えたショックは、いかほどであったか。思い返しても余りあります。

彼女が行ったこと。それは無自覚な「選択権の放棄」がされている教室で、大勢に逆らっているという自覚とその不安の中でも「選択権を獲得」しようとしたことです。
なんとなくのマジョリティに流されず、かといって徒にマイノリティ的なタブーに気安く踏み込むでもなく、ただ真剣に自分の「楽しかった」と向き合い、結果自分にとっての真なる「楽しかった」を選択肢に加えたことです。

ただ、小学生故、まだそれに自信が持てなかったのでしょう。大勢の同意はいらないが、誰か一人に背中を押して貰いたい。私のところに相談に来たのは、半分そんな気持ちもあったのでしょう。

その時、私は試されたのです。彼女の見つけた選択肢にイエスかノーを与える、それは即ち「先生は何を優先しているのか」という問いでした。そして思い出したのです。自分が絵を描く時に優先していたことは一体何だったかを。伝えるべきは何かを。

結果、彼女の背中をしっかりと押すことを選択したのは間違いではなかったと、時を重ねる程に誇れるものとなっています。

そして同時に、彼女も私の背中を殴り…もとい押し、教えを与えてくれたのです。

⑤マジョリティとの付き合い方。

ここまで言ってきて何ですが、私には美術教育のマジョリティが生む問題を根本からアレコレする気は毛頭ありません。やりたいようにやればよいと思っています。

何故ならその渦中にあっても、「選択権」を持つことができることを知ったからです。

もし、誰が決めたか分からないような総意の中で、自分の最も優先すべき真意に辿り着こうと試みる子がいたならば。
マジョリティもマイノリティも倣うものではなく、自ら選び取ることができると気がつく=「選択権の獲得」をしようとしていたのならば。

いついかなる時でも、ただその選択を保障してあげたい。
そう在りたい、と思わせ、それで良い、と教てくれたのは彼女のニンマリ笑顔でした。
その為にまず自分の「選択権」を忘れずにいること。これが、私がこの思い出から得た教訓です。

あの笑顔が、ニコニコではなくニンマリだったこと。彼女が「選択権を得た」喜びの笑みだったのかもしれないのと同時に、結局は私にとっても、だったのかもしれません。

Text and Image = 本田雄揮(アトリエ5)
Direction = 遊と暇
・Edit = Tatsuhiko Watanabe
・Sound select = Keiko.mei.Fukushima

Website http://atelier-5.com/

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