見出し画像

【掌編】知らないことばかり

まだ夜だ。カエルの鳴き声がして、オレンジ色の灯りが部屋中を照らしている。どこにいるのかすぐには解らなかった。
 傍らには弟が、昔と変わらない寝相で眠りこけていた。疲れていたんだと思う。眠る前に何を話したとかは覚えていない。
 半身を起こし、惚けたままで辺りを眺める。少し開いた押し入れの襖。暗闇がそこにある。ゆっくりと近付き、潜り込んでみる。いくつかの段ボール箱をかき分けてみると奥には小さな引き戸がある。
 その先に何があるのか、そもそも押し入れの中に引き戸があることなんて。
 身を屈めて戸をくぐると別の部屋に出た。目が慣れて、大小の仏壇が二つ並んでいるのが見えた。だから仏間。その時はそう思った。畳が敷き詰められ、襖で区切られた和室。窓は無く、砂壁で塗り込められた小さな部屋。嗅いだことがあるけど何も呼び起こさない匂い。誰の仏壇だろう。祖父の仏壇は一階の祖母の部屋にある。
 振り向くとオレンジの灯りが遠くに見える。戻らないといけない。急にそう思った。だから来た道を戻り、布団に潜り込んで、目を閉じた時に物音がした。
 それは天井裏から聞こえた。

 そこは母方の祖父母の家だった。祖父は既に亡くなっており、祖母が一人で住んでいる。私と弟は、久しぶりに泊まりがけに遊びに来ていた。
 「天井の裏で変な音がして」祖母の作る朝食を摂りながら、私がそう呟くと、祖母が怪訝な顔をした。横でやはり朝食を摂っていた弟が小さく首を振り、目線で私の言葉を制す。何かを感じて、それからはその話題に触れることもなく、昼過ぎに私たちは祖母の家を後にした。
 帰りの電車で、弟に昨夜聞いた天井の物音について改めて尋ねた。
 「いいだろ、もうその話は」他愛のない冗談にも笑ってくれる弟が眉をひそめて、突き放すように「白々しいよ」
 電車が止まる。ドアが開き、数人の乗客が乗り込んでくる。
 「じゃあ」弟が席を立つ。いつの間にか彼の最寄駅に着いていた。
 開いた隣の席に、入れ替わるように若い女が滑り込むように座る。
 瞬間、あの部屋で嗅いだ匂いが鼻腔を掠めた。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?