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3.11について客室乗務員が思う事

今年で3.11から10年経ちます。今日は2011年3月11日に発生した東日本大震災について話しましょう。

私は直接的に被災したわけではありません。でも、3.11を”感じる”瞬間は誰しもあるずです。これは私のそんな体験です。

忘れられない光景があります。

2013年のこと。その日は仙台泊まりでした。客室乗務員は、泊まり先の空港で仕事が終わると、空港から滞在するホテルまでタクシーで移動します。

私にとっては初めての仙台でした。初めて行く土地の、初めて見る景色。興味津々でタクシーの車窓を眺めていました。

窓の向こうには、真新しい家がわずかに点々とある他には何もなく、ほとんどは草が生えた更地。

ふと気づくと、そのまっさらな更地に軽トラックを止めてたたずむ一人の男性の姿が。どこか懐かしむように大地を見つめるその後ろ姿が気になりました。

そこには、草がわずかに生えた地面が広がるばかりで、見るべきものは何もないはずでした。にもかかわらず、男性は何を見つめているのだろう。彼の目に映っていた、彼にしか見えない光景は一体何なのだろうー。

そう不思議に思って窓の外を見ている私に、タクシーの運転手さんがぽつり。「この辺りは、ぜーんぶ津波にさらわれちゃったからねぇ」。

はっとしました。

そうか、この更地の上にはもともと、人々の生活があったのか。わずかな真新しい家は、震災後に建て直したからで、更地が多いのは、津波で流されたままだからか。じゃああの男性が見つめていたのは、震災で何もかも無くなる前の日々だろうか。草が生えるだけになった大地の上に、彼はどんな思い出を見ていたのだろう。彼は3.11で、何を失ったのだろう。失ったのは家だけだろうか、家族もだろうか。大切なものを失った時、自分はどんな気持ちで思い出を見つめるだろうか。

そのような事に思いを馳せた時、初めて私の中に3.11が実感を伴って入ってきました。あの日、間違いなくそこには、生か死かの瞬間があったということ。そして自分は、そういう地を今踏みしめているという事実。それまでは映像で見るだけだった3.11が、初めて私の肌を撫でた瞬間でした。

2011年3月11日、岩手県の仙台空港も津波により浸水しました。

今でも仙台空港内の柱には、当時を忘れまいと浸水地点まで印がつけられています。その印の高さは3.02m。大人の身長をゆうに越えます。

浸水した仙台空港は、様々な方の尽力により、約1ヵ月後の4月13日に復旧しました。国内線が1日6往復。再開したばかりの便に乗務した客室乗務員が言っていました。「何もかも変わってしまった仙台を空から見て、自分もキャプテンもみんな泣いてしまったよ」と。これがもう10年も前のことなのです。どんな小さなことであっても、語り継いでいかなければなりません。

仕事柄、国内外の様々な場所へ行きます。色々な土地で、色々なものを見ます。美味しい食べ物、わくわくする観光地、素敵なお土産。”CAだから知っている○○!””CAがおすすめする○○”。そのようなフレーズはよく見るし、キャッチ―です。

そういうものも好きですが、私はあまり詳しくありません。教えるより教えてもらう側。なぜなら、私はどちらかというと、その土地で生きる人々の息吹に惹かれるから。

インドで見た片道15車線の大道路。
ミャンマーで出会った花を売る少年。

いつだって私の心を打ってきたのはそういうものばかりでした。その土地で生きる人は、一体どんな思いで生きているのだろう。そこにはどんな生活と背景があるのだろう。そういうことを私は知りたい。

もしあの時仙台で、あの光景を見なければ、私は3.11を実感しないまま10年を過ごしていたかもしれません。あの時車窓から、一人の男性の姿を見なければ、私は何も知らないままだったでしょう。人生には、見ない、見ようとしないという選択肢もあります。けれどあの時、私は見て良かった。様々な場所に行くからこそ、色々なものを見ようとしなければならないのです。誰も見ようとしないものこそ、誰かが見てあげなければいけない。そして伝えなければいけないのです。

これが私にとっての3.11です。今あるものは決して当たり前じゃない。すべてに感謝です。