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現代文・倫理・体育を越境する

今月発売された伊藤亜沙さんの新著『手の倫理』が非常に面白く、一気読みしてしまいました。
「さわる」と「ふれる」の違いから始まり、「まなざしの倫理」とは異なる「手の倫理」の可能性を論じている本ですが、議論の射程は幅広く、ケア論・身体論・コミュニケーション論の入門とにもなりうる本だと思います。「触れること」が難しくなっているご時世だからこそ、じっくり読んで周りの人と感想を語ってみたくなる一冊です。

さて、この本の第1章は「ほんとうの体育」という話から始まっており、そこでは「体育の授業が根本のところで目指すべきは、他人の体に失礼ではない仕方でふれる技術を身に付けさせることだと思う」という体育科教育学の研究者の考えが紹介されていました。「その言葉に大きな感銘を受けました」と伊藤さんは綴っていますが、体育に苦手意識があった自分としても大いに共感できる部分でした。
そして本書を読み進めるうちに、「身体論を軸に、現代文・倫理・体育の3教科を越境する学びが構想できそうだ」という妄想を持ち始めました。今までに公民科の教員として現代文との連携を考えたことは何度かありましたが(残念ながら実現には至っていません)、本書の事例を踏まえて体育と連携できる可能性も感じるようになりました。
特にその可能性を強く感じたのが、本書の第6章「不埒な手」でも紹介されている「見えないスポーツ図鑑」の試みです。これは、様々なスポーツ種目における「力のせめぎあい」「リズム」「駆け引き」などの感覚を「翻訳」することを試みたプロジェクトで、下記WEBページでその成果が紹介されている他、書籍でも出版されています。この試みはコミュニケーション論の観点からも非常に興味深いですし、学校での学びにも大いに応用できるのではないかと考えています。

こうした試みを既存の(現代文・倫理・体育の)授業の枠内だけで実現するのは難しいかもしれませんが、例えば「総合的な学習の時間」で試してみても良いと思いますし、新学習指導要領で新設される「総合的な探究の時間」で扱ってみるのも面白そうです。どうしても探究というと大きな社会問題と結びつけないといけない気がしてしまいますが(最近の学校現場ではSDGsが人気ですね)、この試みのように「自分の身体」という身近なステップから出発する探究も重要ではないでしょうか。今はまだ着想レベルですが、いずれは授業実践として実現してみたいテーマです。
※余談ですが、本書は議論の展開が非常に明快なので現代文の読解にも適していると思います。伊藤さんの『目の見えない人は世界をどう見ているのか』は、国語の中学入試問題では定番になりつつありますね。

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