演じるということ

わたしは女優ではない。
現在しがないOLで、学生時代もしがない喫茶店でバイトをしていた。

けれどいつも感じているのは、自分が「演じている」という事実だった。
おそらく多くの人が無意識にやっているであろうことだと思うのだが、ある時ふと自覚的になってしまっただけだ。

そもそもそんなこと、何年も前に東京事変が歌っているよ、と言われたらお終いなのだが、ひとまずそれとこれとは別に考えて読んで欲しい。

女子校から出た瞬間、私は女であるという事実を改めて知ることになった。
サークルに入った瞬間「一女」と呼ばれるようになる。

女の子でもなくまぎれもない「私」でしかなかった私は、突然の杓子定規に戸惑う。
ヤバイな。さっさと「女の子」にならなければいけない。
とりあえず可愛いと言われる女の子の真似をする。喋り方、しぐさ、髪の感じ、笑い方、座り方。女の先輩を見て、女の気遣いとはこういうこと、と学ぶ。

女の子の無知は是である、とも学ぶ。

男子の妄想みたいな女の子を作り上げていく。
これはとても面白い作業だ。
男子はなんだかんだ、清純なイメージを好む。「女子校育ち」の肩書きは、そこではとても好都合だった。
そんな「お嬢感」をベースに、けれど意外な一面を加えていく。たとえば、パンクとかを聴くような男っぽい一面を持たせれば、おっこの子そんな話もわかるんだ、と思わせることができる。

ただし、相手の知識を凌駕するうんちくは禁物。

単に、白いワンピースも古着のジーンズも、どちらも似合うような人間を目指せばいいということである。

アルバイトもそうである。
始めた瞬間「店員」と言われるようになる。

喫茶店のバイトに採用された当初、私は言葉がうまく出てこなかった。しぐさもぎこちなかった。
でもある日ふと腑に落ちた。

店員の役になればいいのだ。いらっしゃいませは台詞、お辞儀は振り付けだ。
私として接客しようとするから、なかなかうまくいかないのだ。

恋愛もまたしかり。
最初のデートで、私はどこを歩いたらよいのかさっぱり分からなかった。
でも彼女の役になればラクだ。一歩後を歩き、よく彼氏の話に耳を傾け健気に笑い、たまに小さないたずらをしてみたりする。

こうやって、いくつもの役を習得していく。
場面によって演じ分ける。私はまるで自分が映画の中にいるような感覚に陥る。

そうやって生きてきた。
私は女であり、学生であり、店員であり。就活生であり、先輩であり、成人した娘であり。
そして彼女になり、新人OLになり。サブカル女子であり、天然である。
役は増えたり減ったりした。その都度捨てたり拾ったりした。
あなたを一言で表したらなにか、と言われたら、間違いなく「演者」だと言うだろう。

すべてが私ではないからラクだった。
酷なことを言われても、現実を突きつけられても、しびれを切らされても、それはそういう「役」でありプロットであるのだから仕方なかった。

そういう話を、以前友人にぽろっと話したことがあった。社会人になって間もない頃、どこかの定食屋かなにかでぽろっと。
友人はわたしの言葉に納得がいっていなかった。

けれど半年後、深夜にその友人からかかってきた電話で、なんのことはなしに話していた中で言われた。

「ちとせの言う、あの『演じてる』みたいなの、この前めちゃくちゃ、そうだなって思ったの。だからそれ伝えたくて」

わたしの言ったことがそんなに響いてたなんて、少し嬉しかった。その時ばかりは、私は少し役ではなかった、と言ったら嘘になる。
姉御肌の友人、の役だった。

「でもさ、なんか、ちとせが演じなくてもいいようなさ、そんな人が出てきてくれたら、いいなって思うよ」

友人に言われて、ヤバイよクサいよーこのドラマ、と思いながら、どこか動揺していた。

その時失恋したばかりだったこともあって、自分が常に現実に分厚い膜を張っていることから目を逸らせなくなっていたのかもしれなかった。

私の楽屋はどこだろう、とかまた、芝居掛かったことを考えた。正直ひとりでいても、どこか役から離れられていないのだ。ネットでもそう。私は複数のSNSにこれまた複数のアカウントを作り、その場その時でうまく使い分けてきた。

役から離れた自分に色はあるのか。
透明ならばそれに色をつけるにはどうすればよいか。

そんなことを考えてしまうのだった。

#コラム  #エッセイ #ジェンダー #自分 #cakesコンテスト

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