自己意識の追認教育プログラム

◆はじめに

仕事をしていて課題に思ったのは、「管理職以上の能力をどのように教育するか」ということ。
「こういう組織が良い」と組織の型を示すビジネス書は見たことあるが、それは組織を構成する人間が予め一定の能力を有していることを前提にしている。表面だけ思いつきで真似るとむしろ生産性は下がる。

必要なのは底上げとしての教育であるが、一般的なやり方である「教科書からの学習」は実際のところ人を選ぶ。
というのも、まず大量の情報を記憶あるいは取捨し、それを自分の中で言語化し、状況に合わせなくてはならないからだ。資格を取ったところで、それを活かせるかどうかは別問題である。
だからそもそも教科書から学び取れる人は、何も指南せずとも勝手に学習する人物で、教育の必要性が薄い。これが一つ目の教育の仕方の問題。

もう一つの問題は、組織として管理職以上の人材を求めているとしても、そもそもそのモチベーションがない人は多々いるということ。
教材があっても学び取れないのは、身に付けることに対して関心や意義を感じていない場合もある。これでは記憶効率も下がるし、自分に落とし込むこともしない。

一つ目の教育の仕方の問題は、教育全般にかかっており、二つ目のモチベーションの問題は、その一部の背景に潜在している。どちらも被教育者の内面のプロセスであり、外から何が起きているかを量るのは容易ではない。

本稿では試金石として、哲学の現象学や経験科学のシステム論のエッセンスを抽出して、心的システムのプロセスへのアプローチから教育を考えてみようという心がけである。
とはいえ精読を受けてない思弁なので、そもそも本稿自体、他者が読むのに適していない感が否めないが、私の文体はいつもそうなので開き直って記録する。
読みやすさは別として、私が書く文章の中では軽くフランクな内容になると思われる。(それに同じような内容の文章は過去にも書いた気がする。)

それと他にも注意点だが、どうやら人の関心は内向型と外向型に分かれるらしく、私のやり方は内向型に適したやり方である。
外向型は既存のやり方であるテスト結果を指標に照らし合わせてトライ&エラーを繰り返す方法で問題ない。逆に私のやり方を知ると、混乱を来す可能性もあるので注意が必要である。

追加で最後の注意点として、私の手法は一対多の教育には向いていない。マンツーマンで演習するか少人数で課題をこなすのに向いている。
「あなただけに秘密を教えます」といった謳い文句もなく、知っている人なら当たり前にやっていることかもしれない。それでも構わない、暇つぶしとして見る、という程度で読む文章としてなら価値はあるかもしれない。

◆心的システムとは

最初に用語説明をすると身構えることになるだろうから、簡単なイメージで捉えることから始めたほうがよい。

例えば今この文章を読んでいるとき、何が起きているだろうか?
文字を目にし、文字のまま受け取る人もいれば、心の中で音読する人もいる。また、読んだ文章に対して、自分の言葉で置き換えて、考え直す人もいる。はたまた、文字を流し読みして、友人が言っていたことの意味を考え直すなど、文章には全く関わらない別のことを考える人もいる。

そうした文字や記憶のイメージや思考は、連想ゲームが流れるように繋がっていく。一つ一つの要素は、海を構成する水のように区別の付かないものではなく、1文字1イメージと区別して認識できる個として捉えられているはずだ。

こういった意識の中で要素が連なってく様を心的プロセスとか内的プロセスと私は呼んでいる。
そしてこのプロセスの総体を心的システムと呼んだらよい。心的システムは、思考した要素に応じてある程度区分けできる。例えば、「意識」と「自己意識」は同じ心的システムだが、形成過程が異なる。

(ちなみに「心的システム」という用語はルーマンという人が最初に思いついたもので、私の造語ではないし定義も異なる)

◆意識と自己意識

意識はスポットライトの差したステージのようなもので、そこで文字やイメージ、感覚や思考などが浮かんでは消える。
こちらはすでに述べたとおりだが、その後に形成されるものとして自己意識がある。

自己意識は例えるなら、意識というステージを見る観客や監督のようなものだ。意識で起きている事態を俯瞰して捉える。
感情が働くとき「ああ、今は怒っているな」と、ふと自分に距離を置いて感じることがあるだろう。そういう経験がないなら、今この文章を見ている意識というものを、注意して意識することだ。

意識を注意して捉えたときには、すでに自己意識から捉えられた意識となっている。意識を意識する働きが自己意識であり、その自己意識自体を捉えることもできるが、かなり無理がある。日常生活では自己意識さえあればよい。

私の教育手法とは、意識で何かを習得したときの感触やプロセスを、自己意識から捉えて記憶し、言語化して、他者へ教育を施す際に再生することだ。
他者意識に自分の感覚を適用する際には、相手に届きやすい言葉を探り当てる必要がある。ここにセンスが問われるが、まずは何事も経験してみてからだ。

余談だが、自意識は他者から見たときの自分をイメージして語り直すことでかたち作られており、言葉に依存している。だから自意識の実態は、意識の中で生み出された言葉に近く、実際の意識の働きそれ自体からは少しズレた姿となる。

◆客観的指標の違い

最初の問いは「管理職以上の能力をどのように教育するか」というものだった。これはそもそも、管理職以上として充分と言える能力の条件を明らかにする必要があるだろう。

日本にはプロジェクトマネジメント協会や学会、PMI日本支部などがあり、知識や基準などはそちらに準拠したい。客観的指標はもう十分あるのだから、主観的な手法について語るのが本稿の意義である。

とはいえ簡単に客観的指標のあり方について言及すると、二つの種類がある。一つは徹頭徹尾計れる客観的事柄から導き出した指標、もう一つは主観的な事態を外化し客観的な形にした指標である。

前者は元から主観の世界にない事柄だから、内面化するのは向かない。何かを成したときの結果を評価するのに適している。量子の挙動やキャッシュフローなどはこちらである。便宜上、客観則とでも呼ぼう。
一部の才人にはこうした外的な指標を内面化している者もいるが、そこまでは往々にして求められない。

後者は元は誰かの意識上の思考などを言語化しているため、自分の言葉で落とし込んで内面化することができる。経験談を基にした傾向分析やハウツーなどはこちらに当たる。これは経験則と呼ぶことにする。

これらを意識的に区別して使い分ける必要はないが、自己意識を教育に活用するとは、自分の経験則をリアルタイムで生み出し、あるいは組み換えて、他者の経験に合わせていくことである。

何やら難しいことを言っているようだが、できる人なら普通にやっていることを言い換えただけである。私塾講師などワンツーマンで教育を行う経験をした人なら身に覚えがあるはずで、一方で講義形式だとてんで話にならずこれは役立たない。

◆主観的な結節点

経験則を導入するとき、言語化や図式化されているものを導入すると、まるで丸いスペースに四角い箱を突っ込もうとするかのように無理がかかる。だからなるべく心のあり方に近い図式を取り入れるほうがよい。

よく言われるのは「意識は川の流れ」というものだが、よくよく考えると、川の要素と意識の要素で近い事柄は「流れる」ことぐらいで、形も似てなければ、流れ続けて同一性がないわけでもない。
むしろ意識は前に考えたことをぐるぐる考え直したり、似た好みを選好したりする。どちらかといえば蜘蛛の巣状の網目の上を走っているのに近く、実際ニューラルネットワークという言葉にはその内実が伺える。

しかし、意識上では蜘蛛の巣ネットワークなど感じ取っているわけではない。蜘蛛の巣の形は、意識の通り道すべてを俯瞰する位置から捉えたときに見えるもので、その上を走っているときには見えないはずだ。
例えば道行き交う人々を高いところから見下ろすとき一望できるが、自分がその地を歩くときにはその一望など頭にも浮かばない。

ただ仮に意識のプロセスを一望できるとして、どこかに通りやすいのか通過に偏りがある部分があるはずだ。感覚としては「いっつもこのことばかり考えているな」ということや、「この思い出はとても大切なもの」という感触がある事物。
それはその人にとって「コアセル」となる結節点である。

「原風景」やら「小文字の他者」など別様な事態もあるが、基本形はコアである。まるでそれが思考を組み上げるときの骨組みになっている。自己との結びつきが強い思考だ。

一方で、コアの周辺に繋がる事物は「サブ(コア)セル」である。いつも考えていることから連想ゲームのように派生することや、大切な思い出の周辺にある補足の記憶などがそうである。

人が記憶したり、自分を突き動かしたりする重要なことは、コアセルかサブセルに属する。それらに結びつかない物事を人は自分事化できず、「そういえば聞いたことあったな」という程度にしか捉えられない。本を目で追っていたり、他者からの教えが身に入っていなかったりするときには、意識の中で何も起きていないのである。

そして被教育者に教える際、自身のコアセルとサブセルと相手のコアセルとサブセルの違いを感じ取り、変換して、相手に届く言葉とするのである。

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