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大司祭とは何者だったのか
日本における天皇制というものに危機があるとするならば、それは天皇という存在の人間化、そしてそれによる非個人的性格の喪失だろう。
今日においてもなお天皇が崇拝されているのは、それは天皇個人に対する国民の個人的な人気にすぎない。「やっぱり御立派だった」「やはり人格者でいらっしゃる」そういう考えにすべて乗っかっている。しかしそれは天皇制とはなんら関係のないことだ。元来天皇という存在の起源は天照大御神という太陽神だ。そしてその末裔である天皇もまた現御神という神であり、神道の大司祭なのだ。人格者であろうがなかろうが、人気があろうがなかろうが、神の血を継ぐ天皇は天皇でありつづけるのだ。どうしても天皇個人の性格の良し悪しというのは、天皇が天皇たる理由にはならない。
ではなぜそんなことがおこってしまったか。それは唯に、天皇の人間化、つまり人間宣言にある。今上天皇の現御神という存在は架空のものであり、それにより日本民族の優位性というエスノセントリズムも完全に否定された。そこで天皇の存在は日本国民統合の象徴とあらためられたのだ。
天皇に基本的人権が備わっていないのは、元来天皇にある神性からであり、人間宣言によって天皇の非個人性が喪失されてもなおそれが続くのは、空っぽの状態が維持されているという矛盾にすぎない。
なおのこと、天皇制は廃止するべきなのだ。
こんなことを言ってしまえば、皇帝という君主制をも否定することにはなってしまうが、現代日本において、神性も非個人性も否定された天皇というのは、もはや何者でもなくなってしまった。
元来人間というのは、自らのために死ねるほど強い生き物ではなく、なにか事物であったり存在であったり、そういうものをよすがにしなければ生きていけない。それが日本では大義であったり、忠誠であったりしたわけだ。天皇がその対象になりえたのも、日本神道の大司祭であり神であったからだ。天皇の人間化は、戦後日本の天皇制における最大の誤謬であった。
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