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御殿の秋刀魚と敵前逃亡兵

今まで、すこし喋りすぎたと思います。
僕の憧れる人物というのは、一日に一言か二言だけ、すこし悲しげな表情でぽつんと口を開く老人のはずなのに、いつまでたっても、全くそうはなれません。かといって、言葉のスケッチのひとつやふたつができるわけでもないのに。
そんな貴重な反省も尻目に、またこんな小学生の言い訳のような文章を喋々して、本当に恥ずかしい限りです。

今まで散々、やれ「沈黙が大事だ」、やれ「察しの文化だ」と知ったような口をきいて、「エッセイのようなもの」という反論の余地がない独り言の腰掛けにふんぞり返ってきました。ですが恥ずべきことに、その椅子の持ち主である僕こそが、実は僕の非難と軽侮と、それから羞恥との対象者だったのです。

「黙っていたら分からない」と誰かに諌められることを恐れて、「黙っているじぶん」を変えようとあくせく自己欺瞞に逃げ、「沈黙」も大切にせず、ただただ「口下手」で軽佻浮薄な人間ができあがる。
「沈黙」に憧れてかつそれを装いながらも、その背後に着いてまわる「孤独」の影を恐れて、かと言っておちゃらけに振り切ることもできず、「沈黙」と「発言」のちょうど中庸をとってしまう。そういう粉塵が積もっていって、やがてどう足掻こうと変えようのない、中途半端な人間という歪な山が歴然と聳え立ってしまいました。

これほどまでに、僕の綴っているこの文章だとか、僕の喋々する言動の数々を、僕自身が恥じているにも関わらず、それを辞めずに延々続けているのは、その言葉こそが、実は僕にとって受け身のためのマットのような「弁明」だからです。
僕が最も恥とするのは、恥ずべきことだというのにその自覚がなく、ただただ他者から向けられる羞恥の視線に気づくことができないという状態です。ですから、そこまでは落ちまいと「恥だというのは百も承知です...ですがせめて...」という心境で弁明しているつもりなのです。ただ、その弁明がまた新たな恥を産む訳ですから、この弁明のドミノ倒しは地球を一周するまで終わりませんし、なんなら先に倒したドミノは治って再び起き上がってきますから、一生終わらず未来永劫繰り返すかも分かりません。ですが、それでも僕は弁明を続けます。それは、僕と関わる方々に、頭の隅の隅のさらに僻地でもいいから「黒田はややこいやつだもんなぁ」という認識が少しでもあるだけで気が楽になるからです。むさ苦しい狭小な部屋から一転、広い屋上に放たれたような、緊張感の中ほんの一瞬味わえるハツラツさがあるのです。

自虐はやめようという時代の風潮がありますが、勘弁してください…。僕にとっては、この「弁明」を「自虐」と丸められるのは極めて心外なのです。
僕はこの弁明を介して、今までの恥滅ぼしを遂行しなければなりませんし、それはめいめいと繰り返されると思われます。その恥滅ぼしが終わるまでの猶予期間、自虐という肩書きでも構わないので、せめて僕の弁明を許してください。

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