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ほどく

先日、友人への誕生日プレゼントを買ったとき、専用のきれいな布袋に入れてもらった。
かといって、その袋をあとあとどうするかといったら思い当たらない。
きれいなのですぐに捨てにくい感じがかえって迷惑かとも思ったけれど、旅行のときに替えた下着を入れるのにでもしてくれたらいいと思い直した。

とりあえず。
私は、包装紙や紐をとっておくクチだ。
きれいなやつ限定だけど。

そもそも反断捨離だし、終活のひとつとして物を捨てていくなんてことも考えていない。
幼いころ貧乏をしてきて、いませっかく自分の稼ぎで自分の好きなものを買える(安いもの限定だけど)ようになったのに、なんでいまからそれを控えにゃならんのか。
ひとつ買ったらひとつ捨てる?
私は、両方あるひとときを味わいたい。

遺される家族に厄介をかけたくないと自分のモノを整理している人もいるけれど、子供が幼いころ散らかしたおもちゃをさんざん片づけては掃除してきたのだから、自分亡きあとはその死を悼み、生前の面影を偲びながら片づけてもらえばよろしい。
これは、能力や時間の問題ではなく覚悟の問題である。
1週間足らずで実家じまいと2つの引っ越しをやった私はそう思っている。
自分の葬式代のために、生きている間の生活費を削って死亡保険をかけるのと同じくらい馬鹿馬鹿しい。

いまの時代、包装紙や紐をとっておいても、使う機会はほとんどない。
大抵は、とりあえず引き出しにしまって、そのまま何年か経ち、いっぱいになってきたら捨てる。
結局捨てるのだ。
捨てるときに、どの包装紙が誰からもらった何を包んでいたものか、すでに記憶にない。
記憶にないから、捨てられるのだと思う。

結局、開けるときにびりびりに破いて捨てても、何ら差はない。
むしろ、余計なものに場所をとられないから、そのほうが合理的である。
私のやっていることこそ馬鹿馬鹿しさの極致だ。
とは思う。

ものごとに丁寧なほうではない。
不器用だし面倒くさがりだし、片付けも掃除も雑だ。
でも、包みを開けるとき、紐は切れないし包装紙は破きたくない。

なんでだろう?
「もったいない」というのとはちょっと違っている気がする。

きっと。
私は「ほどく」のが好きなのだ。
いや、「ほどけない」のが嫌いと言ったほうが近い。
ほどけなくて切ったり破いたりすると、なんだか「負けた」ような気がするのだ。

子供の頃、よくゴム跳びをした。
私の世代、地域では「ゴムだん」と呼ぶ。
友達と遊ぶことがあまり得意でなかった私にとって、ゴムだんは数少ない集団での遊びだった。
ゴムだんのゴムは、駄菓子屋で買えるが、手元にないときは、輪ゴムを繋いで作った。
いずれのゴムも、たまに絡まってダンゴができる。
私は、これをほどくのが好きだった。
友達が手間取っていると「貸してみ、貸してみ」と取り上げた。

編み物の毛糸や、かた結びになっている紐も切らずにほどきたい。
さっさとハサミで切ってしまえばいいのに、負けるような気がして悔しい。
いったい何と勝負しているのか。

そして、無駄な時間と労力をかけて、ほどけるとすっきりする。
達成感というか、カタルシス。

包装紙のセロテープもきれいに剥がしたい。
それで、せっかくきれいに剥がしたのだから、切らずにほどいたのだからと、とりあえず保管しておく。
そして、結局捨てる。

切ってしまえば簡単、破いてしまえば早い。
思えば、ほどくことを早々にあきらめて、切ってしまった人間関係もある。
ほどかないならとっとと切るし、ほどくと決めたら最後まであきらめたくない。
さんざん手をかけてほどけなかったから切るというのが、たぶん一番悔しいと思うから、その決断は早いほうかもしれない。

どうでもいいものが好きだ。
どうでもいいことにこだわるのも嫌いじゃない。
そんなものとっておいてどうするの?というような、役に立たないもの。
使う機会が来ないとわかっていて、ただ「ほどく」ことを楽しむようなもの。
そんなものを勉強して将来なんになるの?とか、よく言われた。
そういう質問をしてくる人との関係は、ほどかずにとっとと切ることにしている。

どんなことも「目的」にばかり目がいってしまうとつまらなくなる。


読んでいただきありがとうございますm(__)m