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【エッセイ】理想の大人まではるか遠い道のり

「大人」って何だろう。
そう聞かれたら「社会性という皮で上手く仮装した子ども」という表現をよく使うが、正直なところよくわかっていない。
法律的に「大人」になってからわからなくなった。
だからここで一度考察してみたいと思う。

まだ子どもの頃の方が「大人」というものがなんだかわかっていたような気さえしてくる。
いや、それは正しくないと思う。
子どもの頃に考えていた「大人」は、「理想の大人」だった。
強くて、正しくて、毅然としていて。

それに照らし合わせたら、僕はぜんぜん「大人」になれてない。
弱くて、間違ってばかりで、ふらふらしている。
理想から程遠い「大人」になってしまった。

でもきっと、そういう人がほとんどなんじゃないかと思う。
「わたしは立派な大人になれました」
という人がいたらぜひ話してみたい。
「大人」がどういう定義なのか。
それに見合った人間性を手に入れたのか。
あなたはどうやって「大人」になることができたのか。

僕は「いつになったら理想の大人になれるのか」という問いには「たぶん、その時は一生なれないんじゃないかと思っている」と答えるだろう。
少しでも「大人」らしい精神性であろうとしても、何かあるたびに足りないところが浮き彫りになったり、反省しても同じ過ちを繰り返してしまう。
1つ知れば2つわからないことが生まれるように、生きている限り過ちを犯し続ける。
まだまだ「大人」になれていないこと思い知り、「大人」までの距離を実感する。

また、常識というものが時代によって変わってしまうように、「理想の大人」の定義も時代や立場などによって変化してしまだろう。
そのことが余計に「大人」をわからなくさせる。
でも一つだけ正しいと思うことは、死ぬまで「理想の大人」を追い続けることができる人がより「大人」に近づけるということだ。

もちろん、「大人」の定義を間違えていたら、それは正しい「大人」とは言い難い。
それでも本人からしたら「理想の大人」なのだから、それは「大人」に近づいてるともいえる。
そういう前提に基づいてとなり申し訳ないが、僕は「理想の大人」を以下のように定義する。

「人として正しくあろうとし、聞く耳を持ち、状況に応じて変化し、必要に応じて意見を述べ、立ち上がるべきところで立ち上がれる人」

と。
こうやって言葉にしてみると、僕の「理想の大人」まではるか遠い道のりだが、そんな「大人」になりたい。
なろうと足掻きたいと思う。
何年かかろうとも。
何十年かかろうとも。
それが僕の考える最も「大人」に近づく方法だから。

こうやって僕は、明日も生きていく。

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