『怪物』を観てきて思ったこと。

少し前のことだけど、『怪物』を見てきた。

小学校の頃の先生を思い出した。

作品の中では
「小学校の時の先生なんて覚えてないでしょ」
と言われていたが、私は1年生から6年生まで、担任の先生のフルネームも顔もばっちり覚えている。

そして、「大人は信用ならない」ということを強く思ったのも、小学校の時が初めてだった。

私は小学校の頃それはまぁ拗らせていて、思い出すのもしんどいくらいにはさまざまなことがあった。
先生方としても、所謂扱いにくい、厄介な子供だっただろうなと今では思う。

しかし、先生方もさまざまだったのだ。
先生によって方針が違う。2年生までは、給食が配膳し終わるまでは本を読んでいて良いルールだったのに、3・4年生の時の担任は当然きちんと座って待っているのが普通だとしていたらしい。知らなかった私はいつも通り本を読んでいたら突然本を取り上げられ、廊下の本棚まで連れられてひどく怒られた。それが、3年生初めての給食の日のこと。
私は「理不尽に怒る先生だ」という思いのまま、2年間を過ごすことになる。

次の担任は、その年に赴任してきた男性教師だった。
所謂「デキる」先生だったのだと思う。授業にゲームを取り入れたり、当時まだ珍しかったグループワークを取り込んだり、魅力的な授業展開をしていたという記憶がある。
ただ、「お気に入りの生徒」を作る先生だった。えこひいきという言葉を知ったのはその頃だ。
私は最初「お気に入り」の一人だった。しかしそこでうまく泳ぐことができず、そして「可愛がられているがゆえクラスで嫌われている」という被害者意識を持ち、教室に行くことが億劫になっていった。
保健室に通うようになって、彼はよく会いにきた。「話をしよう」とその度に言われた。しかし先生を嫌うことによって自分の正当性を確保していた私は、会う気にも話す気にもなれず、逃げ回っていた。


今冷静になって考えると、その先生その先生それぞれに正義がある。
3・4年の時の先生はけじめを重んじていて、甘えた低学年からの卒業と、統率の取れたクラスを目指していた。
5・6年の時の先生は、新しい赴任先で張り切っていたのだろう。授業は魅力的で、楽しめるようにと工夫されていた。着任して初めて会う生徒たちと、一緒に盛り上がっていこうとしていた。その「一緒に」の中心となり伝達役になってくれる生徒たちとの関係を密にしたかったのだろうと思う。しかし私たちはそれを「えこひいき」と捉え、今までの授業と違う「新しさ」に戸惑いと拒否反応を起こしていた。

5・6年の時の担任に言われた言葉で、忘れられない言葉がある。
「あなたが教室に来てくれないと、先生困っちゃうんだよ」
保健室登校になってだいぶ経った時のことだった。なんの気なく発せられた言葉だったと思う。ひねくれた私は、「この人は私の気持ちより自分の立場が大事な人なのだ」と捉え、もう絶対に信用しないと強く思ったのを覚えている。
…ただ、真意はどこにあったのだろう、ということは今でも気になっている。

私たちは子供だったし、先生という立場の人は大人であり、そして大人は完璧だと思っていた。先生たちにも事情があるなんて想像もしなかったし、ましてや先生たちを「理解する」「許す」なんて思いもしていなかった。
無邪気に好きになり、無邪気に嫌いになる。そして子供の「嫌い」は、時に残酷なまでに、大袈裟に広がっていく。


『怪物』の中で、少年が吐いた嘘は、教師を退職にまで追いやっていく。
最初、なぜそんな嘘を、と思った。しかし彼の中ではそれが精一杯の「正義」で、そうとしか言えない苦しさがあった。
本心と、クラスの中での立場と、息子としての自分。さまざまな自分が同居する中で、彼の吐いた嘘は、彼の中では嘘ですらなかったのかもしれない、とも思う。

自分は被害者だと思っていた私は、きっと同じようなことをしてきている。


「物事は見る立場によって様変わりする」
「『真実』はひとつではない」
昨今人気のテーマであり、よく出合うメッセージである。しかしここまで心深く抉られたのは初めてだった。
きっとあの小学校で起こっていた事件は、多かれ少なかれ私たち全員に思い当たる節がある。

何が「正義」で、何が「正しい」のか。
それを取り沙汰すること自体が、もうナンセンスなのかもしれない。

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