見出し画像

眼鏡とわたし  叶

青いお空を飛んだから水色眼鏡というのなら、
青いお空の下を歩いたわたしの眼鏡も水色のはず、なんてことを考えながら羽の代わりにパジャマの襟をパタパタさせる日々を過ごしている。

ところでみなさん、視力は良いですか?
わたしはもう、驚くくらい悪い。

大学生の時分より愛用していたまるで似合わない細い赤縁の眼鏡をかけているというのに、
どうも周囲の景色も現実も見えないと感じたのは25の頃だったと記憶している。

近所の眼科に駆け込んだところ「眼科医的にはあなたの目は限りなく見えていないに等しい。
眼鏡を変えるか手術を受けるように」という恐ろしい診断を受けた。

おしっこを漏らしそうになりながら、
眼鏡を新調することをその場で決めた。
視力検査を受けた結果、
近視もさることながら乱視が酷いことになっていた。

以降わたしの視力は低下の一途を辿っているのだが、
どうやらこの現象はもりたさんも同様であるということを昨日の記事で知ることとなった。

さて、そんなこんなで作成した眼鏡はそれまでの細い赤縁とは雰囲気の異なるいわゆる丸眼鏡であった。

「丸眼鏡をかけて頭悪そうに見えない人、はじめて見た」
知人の発言は眼鏡姿の自分をイマイチ好きになれないわたしの心の支えとなっている。
それ以来、視力が悪化するにつれ新調する眼鏡はいつも丸い。
知人については今じゃ生死もわからない。

ところである日、視力の矯正をコンタクトレンズに任せとびっきりのおめかしをしていたところ、
家族に「今日、なんか顔足りてないんじゃない?」と言われた。
その日のわたしは自分でいうのもアレだが厚化粧で、
どちらかというと顔はいつもより余っていた。
一瞬戸惑った後、顔の足りてなさとはつまり眼鏡の不在のことと悟った。
すっかり眼鏡も含め自分の顔であるとわたしはそこで痛感した。
もはや眼鏡が本体と化しているんだろう。
これもまた、もりたさんと同様であるようだ。

ここからは視力検査にまつわるちょっぴり辛い思い出をば。
「赤と緑、どちらの線が濃く見えますか?」
わたしはこの質問をかなり苦手としている。
まだ美容師さんの「どこかおかゆいところありませんか?」の方が堂々と答えられる。

検査技師さんの質問の意図はわかる。

だがしかしわたしが自信を持って赤または緑の方が濃いと答えられるのはせいぜい2回目までである。
それ以降は「なんとなく」の域を超えない。
仕方がないので大抵「しいていえば」と前置きをして赤または緑を苦笑いで答えている。

辛い思い出はまだある。

「上下左右、丸のあいている部分を教えてください」
「繋がって見えます」
我ながらそんなわけないことはわかっている。
だが見えていないのに適当に答えるわけにもいくまい。

「書いてある平仮名は読めますか?」
「上から順に、つ、し、も、け、です」
「一文字しか出てません」
本当につらい。
だけれども、この答えこそわたしが乱視であることの動かざる証拠になるのも確かだ。


ときに、眼鏡をかけることで視力の不自由を感じないという事実は、
眼鏡を買いに行くことと非常に相性が悪い。
自分の視力が悪ければ悪いほど、だ。

聡明な読者のみなさんにはおわかりのことだろう。
眼鏡を試着するときは必ず自分の眼鏡を外さなければならない。

本来の視力で眼鏡を試着する様は、
見えない on 見たい
あるいは
見たい under 見えない
だ。なかなかに、厳しい。
(これは言いたかっただけなのでwearだとかputだとかはいいっこなし)


ちなみに今回で六代目を迎えるわたしの眼鏡はべっ甲柄、太めのフレームである。
見えないながらに見ようとしたものが、
なかなかかわいくて満足している。

眼鏡屋さんに感謝。


それではまた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?