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ちゆ姫と鏡の魔王(短編)

 暗黒の森のはしっこに築かれた貧しい村に、ちゆ姫と呼ばれる少女が住んでいた。

 ちゆ姫は自らの寿命と引き換えに他人の病を治癒する魔法が使えた。ちゆ姫はその魔法をためらいなく使いまくった。自分の寿命がゴリゴリ削れていくのも構わずに。

 土砂に潰された足もクワが刺さった腕も、ちゆ姫にかかれば一瞬で元通りになる。噂を聞きつけて遠方から多くの病人が村に押し寄せた。ちゆ姫は全員治してやった。彼らがお礼にと置いていった金や宝石は、全部近所の村人に分け与えられた。
 村人たちは表向き感謝の意を示したが、裏では嘲笑っていた。
「頭からっぽのちゆ姫」
「むしり取れるだけむしり取れ」
 だがちゆ姫は意に介さなかった。陰口を聞いても心は少しも動かなかった。

 人生の全てを他人に捧げているように見える彼女にも、唯一自分のためだけに使う時間があった。
 毎晩月がのぼる時刻になると暗黒の森の中にある泉のほとりで歌うのだ。泉は村からうまい具合に離れているので誰にも聞かれる心配はないし、木々に囲まれているから歌がいい感じに反響する。
 道を急ぐ人も思わず足を止めて聴き入る程度には、彼女は歌がうまかった。半刻ほど歌い家に帰るのが彼女の習慣だった。

 ある晩ちゆ姫が気持ちよく歌っていると、泉の中から低い声がした。
「みじめな女だな」
 思わず歌をやめた。
(泉に映った満月が喋っているのかしら)
 泉を覗き込むと、また声がした。
「他人に寿命を吸い尽くされる人生は楽しいか?」
 温厚なちゆ姫もさすがに頭に来た。
「そういうあなたはさぞ楽しい人生を送ってるんでしょうね」
「もちろん。欲しいものは全て手に入れるのが俺の主義だ」
 酷い主義もあったもんだとちゆ姫は思った。
 黙って泉に背を向け肩を怒らせながら家路についた。
 
 二度と泉に行くものかと思ったが、7日もすると歌いたくて喉がムズムズしてきた。
 仕方なく泉へ行き歌うと、待っていたかのように声が聞こえてきた。
「また寿命が減っている。あと一ヶ月しか残っていないではないか。貴様は本物のバカだな」
 歌を邪魔されてちゆ姫はカンカンになった。
「そういうあなたはさぞ頭がいいんでしょうね」
「当然だ。俺は毎日世界を眺めているから多くのことを知っている」
「なら教えて。どうして私の歌を邪魔するの。そんなに私の歌が嫌い?」
 沈黙のあと、静かな声がした。
「貴様の歌は嫌いじゃない。毎日でも聞きたいくらいだ」
それまでの乱暴な態度とは違う真摯な言葉に、ちゆ姫は胸を打たれた。しかし続く言葉に耳を疑った。
「俺は欲しいものは全て手に入れる。だから貴様も連れていく」
 直後、泉の水がざばりとちゆ姫を飲み込んだ。

 しばらくして目を覚ますと、ベッドの上にいた。普段の硬く粗末なものと違い、ふかふかで天蓋付きのベッドだった。
 ウールの普段着は空色のドレスに変わっている。部屋は十頭の牛が飼えるほど広く、天井からは水晶のシャンデリアが吊り下がっていた。豪華な部屋だが、不思議なことに窓はどこにも見当たらない。
 呆然としていると、突然ガチリ、という金属音とともに部屋の扉が乱暴に開けられた。
 ちゆ姫はベッドから飛び上がるように降りると、部屋の隅にうずくまり扉のほうを凝視する。

 そこには魔物がいた。
 狼と猫を混ぜたような顔で、頭には鋭い角が2本生えている。背丈は大人の男よりはるかに高く、騎士のような黒い甲冑と黒いマントに身を包んでいた。

 身の毛もよだつ姿におびえる姫だったが、しばらくして震えは止まった。それどころではなくなったからだ。

 彼女の目はある一点に吸い寄せられる。魔物の顔を斜めに横断する深い古傷に。魔物が口を開くと同時に少女は動き出していた。
「俺は鏡の魔王とい──ちょちょちょなにをする!」
「傷を治します」
「やめろ。望まれない善意は暴力と一緒だ!」
 ちゆ姫は動きを止めた。
「その傷を治したくて私を連れて来たのでは」
「まったく違う。俺から離れろ、速やかに」
 仕方なく、ちゆ姫は元の位置に戻ってうずくまった。
「それでいい。そこから動くな」
 魔王は何回か深呼吸したあと、威厳を秘めた声でいった。
「俺は鏡の魔王。魔物を支配する王だ」
(鏡の魔王……)
 噂で聞いたことがあった。魔物を統べる恐ろしい王がいると。
「ここは我が城の独房。お前には死ぬまでここで生活してもらう」
「嫌です」
「拒否権はない。お前にとっても悪い話ではないはずだ。あのまま村で魔法を使いまくっていたら、2日も経たぬうちに寿命が尽きていただろうからな」
「村へ戻してください」
「お前には仕事をしてもらう」
 ちゆ姫を無視して魔王は続ける。
「俺は毎晩この部屋に来る。俺のために歌え。代金として食事を与えよう」
 いい終わると魔王は部屋を出ていった。ガチャリ、という金属音がして、鍵がかけられたのだとわかった。
 姫は脱出しようとあらゆる手を試したがどれも失敗した。
 数時間後、姫が枕に顔を押し付けて泣いていると、鍵の開く音がして扉が乱暴に開かれた。
 姫は文句をいおうと立ち上がったが、言葉は出てこなかった。魔王の様子がおかしかったからだ。体は震え、顔の毛から汗が滴っていた。
「歌を」
 魔王は絞り出すようにいった。
「歌を聴かせろ」
 いろいろと聞きたいことはあったが、とりあえずちゆ姫は歌った。発酵したリンゴを食べて酔っ払った熊を歌った、陽気な歌を。魔王の震えは少しずつ治まっていった。姫が歌い終えると、魔王は踵を返して部屋の扉に手をかけた。
「次はノックをしてください」
 魔王はちゆ姫を一瞥し、なにもいわず扉を閉めた。鍵のかかる音がした。
 そのとき、美味しそうな匂いがすることに姫は気づいた。部屋の中央にあるテーブルに見たこともない料理が並んでいる。しばらく我慢したが、ぐうぐう鳴る腹は正直だった。仕方なく彼女は食卓についた。
 次の日の夜。姫が頭のなかで新しい歌を作っていると、ゴンゴンと扉が乱暴に叩かれた。
「どうぞ」
 カチリ、と鍵を開ける音がした。扉が開いた。
 魔王の顔は昨日よりずっとひどかった。目は虚ろで荒く息をしている。
「歌を」
 ちゆ姫は歌った。水の中で結婚式をあげる魚たちの歌を。歌い終えると魔王の顔はいくらかマシになっていたが、いまだ顔に血の気はなかった。
「もう一度」
 魔王は呟く。
「今度は悲しい歌がいい」
「その前に聴かせて。あなたは毎日なにをしているの。どうしてそんなに苦しそうなの」
「歌が先だ」
 一つため息をついたあと、姫は歌った。戦争に行った恋人を待ち続け50年が経った老人の歌を。歌い終わると、魔王の顔色はようやく元通りになった。彼は床の一点を見つめて黙っていたが、少しして口を開いた。「見ている」
「なにをです」
「世界を。魔法の鏡を通して」
「今日はなにを見たの」
 魔王は黙った。
「いいたくないなら構わないけれど」
魔王は目を細めて姫を見つめたあと、まぶたを閉じてささやいた。
「一人の子供を、5人の大人が嬲り殺すところを」
 ちゆ姫は息をのんだ。
「今日も助けられなかった。俺が干渉できるのは、魔力を持っている者だけだから」
 いい終わると魔王は部屋を出た。扉の鍵がカチリと閉まった。

 姫がさらわれて10日が経った。外に出られない不満はあったが、悔しいことに城の生活は快適だった。必要な設備はすべて部屋に備わっていたし、昼と夜いつの間にかテーブルに置かれている食事は舌がとろけるほど美味しい。
 姫が自作の体操をしていると、扉がコンコン、とノックされた。
「入るぞ」
「どうぞ」
 魔王は部屋に入ると、テーブルに備え付けの椅子に座った。椅子がギギッと軋んだ。
「今日はなにを歌いますか」
 ベッドに腰掛けながら姫が問う。魔王は目を閉じ眉間にしわを寄せたまま答えた。
「おととい聴いた歌がいい」
「風と火の歌ですね」
 思わず踊りだしたくなるような歌が終わると、魔王は目を開いて姫を見た。
「自作の歌か?」
 姫は首を振った。
「父が作曲、母が作詞した歌です」
「そうか」
「魔王様」
「なんだ」
「あなたは世界を見ているのでしょう」
「ああ」
「なら私が両親を殺した場面も見ましたか?」
 魔王は眉根を寄せた。
「いいや」
 姫はしばらく沈黙したあと、目を伏せていった。
「申し訳ありません。体調が優れないので、今日は早めに寝たいです」
「わかった」
 魔王は素直に出ていき、鍵を閉めた。
 一人になったちゆ姫は自分の体を両腕で抱きしめ、目を閉じた。

 次の日の夜、ちゆ姫がベッドの上で仰向けになりぼーっとしていると、控えめなノックの音がした。
「入っていいいか」
「どうぞ」
 部屋の鍵をあけ入ってきた魔王は椅子に座った。椅子がギャッと悲鳴を上げた。
 ちゆ姫は起き上がり、ベッドに腰掛けた。
「今日はどんな歌を?」
「お前の両親が死ぬところを見た」
 姫は息を止めた。
「どう見ても事故だった。お前のせいではない」
 魔王の視線がまっすぐちゆ姫を射抜いた。姫は何度かまばたきしたあと、ふっと笑った。
「ならご説明します」
 姫は魔王と向かい合って椅子に座った。椅子は沈黙していた。
「私の治癒魔法には3つ弱点があります。1つ目、自分自身を治せない。2つ目、死んだ人間を生き返らせることはできない。死体の傷は消せますがそれだけです」
「そして3つ目の弱点は、自らの寿命と引き換えだということか」
「はい。両親は幼い私に何度もいい聞かせました。決して魔法を使ってはいけないよ。たとえ大切な人が死にそうなときでも、大切な寿命を差し出してはいけないよ、と」
いつのまにかテーブルの上には紅茶の入ったカップが2つ置かれていた。
「飲め」
「ありがとう」
姫は自分の紅茶に角砂糖を1つ、魔王は22個入れた。
「5年前のことです。私と両親はキノコをとりに森へ向かいました。秋の涼しい日で空は青く澄み渡っていました。3人で歌いながらどんどん森の奥深くへ入っていくと裂け谷が見えてきました。森を半分に割る深い谷です。危ないから近づくなと子供の頃から両親にいわれていました。けれど私にはどうしても見たいものがありました。谷の底には瑠璃水晶の花畑があると聞いたことがあったのです。キノコをとる両親からこっそり離れ、私は谷へと近づきました」
 すでに内容は知っているにも関わらず、魔王は黙って話を聞いていた。姫は紅茶を一口飲んだ。
「崖の上からそっと谷を覗き込みました。谷の底には確かに青い花畑があり、太陽光を反射して瑠璃色に光っていました。思わず見惚れていたそのときです。私の体重を支えていた崖が崩れました。悲鳴をあげた瞬間、両親が私の名前を呼びました。私の服を父が引っ張り、母が私を森のほうへ突き飛ばしました。私と引き換えに落ちていく両親の悲鳴を、崖の上で聞きました」
 自分の震えが伝わってカップがカタカタ鳴っているのに気づき、姫は取っ手から手を離した。
「崖の上で考えていました。今すぐ飛び降りれば2人を治癒魔法で救えるかもしれない。けれど落下の致命傷を負った自分はきっと助からない。自分の命と両親の命を天秤にかけたのです。結局私は自分の命を選びました。安全に降りられる場所を見つけて崖下にたどり着いたときにはもう、両親は絶命していました。握り合った2人の手の白さをいまでも覚えています。私は両親の死体の傷を消して綺麗にしたあと、地面の柔らかい場所を掘って埋めました。それ以来決めたのです。二度と治癒魔法を出し惜しみしないと」
 ちゆ姫は紅茶を一口飲み、話し続ける。もう手は震えていなかった。
「崖の下で、きっと両親は私への恨み言を呟いていたでしょう。なんであんな薄情な娘を産んだのかと、後悔しながら死んだでしょう」
 魔王は自分の紅茶を一気に飲み干すと、なにもいわずに立ち上がり部屋を出て行った。鍵がガチャリと閉まった。

 それから三日間、魔王は姫を訪ねてこなかった。姫は一人の時間を楽しんだ。いくつも歌を作り、たっぷりのお湯で体を洗った。
(なんて気楽なんだろう)
 けれど夜になると必ず扉のほうを向いて歌うことは欠かさなかった。別に歌わなくとも食事が出るのは知っていたが、なんとなく落ち着かなかったのだ。
 四日目の夜、ノックの音が部屋に響いた。
「入ってもいいか」
 もちろん、といいかけ、姫は咳払いでごまかした。
「どうぞ」
 扉が開き魔王が入ってきた。姫は椅子に腰かけたが魔王は立ったままでいった。
「崖の下に落ちた両親が、死ぬまえになにを話していたか知りたいか」
 姫は黙っていた。魔王も黙っていた。長い長い時間のあと、姫はかすれ声でいった。
「知りたい」
「ついてこい」

 波打つ廊下をいくつも抜け、七色に輝く階段を何段も上がった先に小さな扉があった。
「屋根裏部屋だ。ここで世界を見ている」
 部屋に入ったちゆ姫は目を見開いた。床や壁、天井はすべて鏡張りになっており、一歩足を踏み入れると幾人もの自分が現れた。
 驚きが過ぎ去ったあと、姫はぽつりと呟く。
「私のことなど忘れたかと思ってました」
「調節に手間取ってな。3日も経ってしまった」
 魔王にうながされ、姫は部屋の中央にある巨大な、けれど粗末なベッドに横たわった。天井から左右逆の自分が見下ろしている。
 魔王がぱちんと指を鳴らすと部屋中の鏡が白く輝き出し、ゆっくりと1つの景色を映し出した。青い水晶の花畑が一面に現れ、姫はびくりと肩を揺らした。
「大丈夫か」
「平気です」
 水晶の花は風に揺れてシャラシャラと涼し気な音を立てている。その音に紛れるように、2人の声が聞こえた。
『惚れ直したわ。あの子を救ったときのあなた、とっても素敵だった』
『君だって頑張ったじゃないか。おかげであの子は助かった。ありがとう』
『こちらこそ。でも心配だわ。これからあの子は一人になってしまう。親らしいことはなにもしてあげられなかった』
『でも、一つだけ胸を張れることがあるよ』
『なあに?』
『僕らはあの子を世界一愛した。あの子は僕らを世界一愛してくれた』
『ふふ、そうね。それだけは誰にも負けない。……私、そろそろみたい。ねえあなた、手を握ってくれる?』
『喜んで』
 再び鏡が光り、部屋は元に戻った。けれどちゆ姫は動かなかった。いく筋もの涙が頬を伝った。
 魔王はドアのまえに立ったまま黙って彼女を見つめていた。

 魔王に付き添われてちゆ姫は自室に戻った。すぐに出て行こうとする魔王を彼女は引き留めた。
「一曲聴いていきませんか」
「……」
「大丈夫。歌いたいんです」
 ちゆ姫は歌い始めた。それは歌というより揺らぎに近かった。歌詞はなく、決まったメロディもない。ときに嵐に揺れる波のように、ときに凪いだ湖面のように、揺らぎは様々に形を変えて魔王の心を揺さぶった。いままでの歌とは違う、魂の歌だった。
 歌が終わった瞬間、魔王は床にがくりと膝をついた。驚いて駆け寄る姫を見つめ、絞り出すようにいった。
「生きろ」
 もう一度。
「生きてくれ」
 姫が口を開こうとしたとき、テーブルの上に料理が出現した。姫は言葉を飲み込み、ちらりと微笑んだ。
「一緒に食べませんか」

「お前がうらやましい」
「え?」
「お前は親に愛されていたのだな」
 自分の顔の傷を触りながら、魔王はぼんやりと呟いた。
 姫は口を開いた。
「最初の日」
「ん?」
「勝手に治そうとしてごめんなさい」
「もういい。分かってくれれば、それで」
 魔王は目を閉じた。姫も目を閉じた。

 ちゆ姫の寿命が残り一週間を切った日の朝。姫が日課の体操をしていると、ノックの音がした。
「どうぞ」
 入ってくるなり魔王はいった。
「お前を自由にする。城から出て好きに生きるがいい」
 姫は魔王を見つめた。魔王は姫から目を逸らした。
「ただし今日の夜、俺が訪ねてくるまでは部屋を出るな。それさえ守ればお前は自由だ」

 魔王は踵を返した。姫がどんな表情をしているか見る勇気はなかった。部屋から出て鍵を閉め、さらに封印魔法を幾重にもかけた。
 城の外に出た魔王は周囲を見渡した。城の周りは数え切れぬほどの兵士で埋め尽くされている。連合国の王が進み出て声を張り上げた。
「鏡の魔王よ、ちゆ姫を引き渡せ」
「断るといったら?」
「わしのうしろに控える大軍が貴様を引き裂くだろう。さらに各国から7人の勇者が集まってくれた。常人とはかけ離れた力を持つ者たちが」
「なぜちゆ姫を欲する」
「あの少女の魔法は貴重だ。後世に残すために子供を作らせなくては。7人の勇者のうち魔王を倒した1人にちゆ姫を与えると約束した」
「本人の意思は無視か」
「当然だろう。たかが村娘に選択権などない」
 7人の勇者の下卑た笑い声を聞きながら魔王は決めた。この場にいる者は1人として生かしては返さないと。

 その日の夜遅く、ちゆ姫の部屋が弱々しくノックされた。
 テーブルに突っ伏していた姫は立ち上がった。
「魔王?」
 扉の向こうからかすかに荒い呼吸音が聞こえてくる。姫はそっと扉に近づいた。
「そのままで、聞け」
 くぐもった声がした。
「これでお前は自由だ。扉が開いたら外で自由に生きろ。城にある宝石や銀器は好きに持っていけ。……最後にお前の歌が聴きたい。そのあとで鍵を開けよう」
「顔を見せて」
「できない」
「どうして」
「頼む、歌を」
 姫は扉に両手と額をつけた。少しでも魔王に歌が届きやすいように。
「リクエストはある?」
「お前をさらった日、泉で歌っていた曲を。途中で遮ってしまったから、最後まで聴けなかった……」
「わかった」

 姫の歌を聴きながら魔王は目を閉じた。扉に背中をつけずるずると座り込む。もはや立っていることもできなかった。魔王は必死で荒い呼吸を抑えようとした。姫の歌が少しでもよく聴こえるように。歌が終わると、魔王は最後の力で鍵を開け、呟いた。
「ありがとう」
 姫は部屋の中で立ち尽くしていた。扉を開けずとも外でなにが起こっているかはわかった。震える手でドアノブを握り内側に扉を開けると、崩れるように魔王の死体が現れた。
 姫はしゃがんで彼の手を握った。温もりが完全に消えるまでのあいだ、たくさんの歌を歌った。喜び、怒り、悲しみ、苦しみ、全てを歌った。歌えるだけ歌ったあと、かすれ声で呟いた。
「あなたは自由に生きろといった。だから私は、今から自由に生きるわ」
 姫は魔王の体に穿たれた7つの傷に触れて消していった。姫の寿命は残り3時間になった。姫は魔王の隣に横たわり、彼の顔を斜めに走る古傷を見つめた。その傷だけは残しておいた。自分が触れるべきではないと知っていたから。
 そして寿命が尽きるまでのあいだ、ちゆ姫は魔王の顔を見つめていた。ただじっと、見つめていた。

おわり


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