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映画「月」を観て

おはようございます。あすです。


水俣展で心が揺さぶられて数週間。
今度は映画「月」で感じたこと、思いをアウトプットしたいと思います。
正直、水俣展からのこの映画の流れはかなり心が揺れて苦しんで悩みました。

この映画は観客に問われる内容であり、あくまで私の立場での一つの意見。
内容は公式サイトのあらすじを読んでもらえたらより分かりやすいです。




予告を見て震える

私は今、いわゆる重度障がい者と呼ばれる方の支援をしています。
(以下、便宜上障がい児者と表記)
今の主な職場はやまゆり事件により奮い立たされて作られた場所です。

その前から福祉を知る人は危惧していました。
障がいを持つと分断と区別でみんなとは違う場所で生きるしかなかった状況。

現に特別支援学校(昔は養護学校)や入所施設は昔は山奥だったり住居地域から離れた場所に建てられたりしています。
実習で行った場所も公共機関では行きづらい場所ばかりでした。
今は支援学校と通常(といわれる)学校の交流は以前よりは盛んになり、障がい児が地域の学校に数日体験に行く活動が行われます。
しかし、地域の学校が支援学校に行くことはほぼありません。

また、私がヘルパーを始めた頃はヘルパーを使って障がい児者が散歩に出かけることは制度上許されていませんでした。

なんで?私たちもぼーっとする時間や、何となく散歩することってあるよね?大事だよね?
と当時疑問でした。
税金を使っているのだから贅沢だとでも言う人がいたのでしょうか。
後に散歩は認められることになりましたが、今でも疑問に思う制度は残っています。
こうやって障がい児者は国からも区別されていると感じています。

登場人物の背景を考察してみる

事件を起こしてしまうさとくんは、序盤に障がい者に紙芝居を読んだり、話しかけたりしています。
周りの先輩にはどうせ分からないのにその時間が無駄だ、こっちの仕事が増える、と言われていました。
さとくんは思いを感じようとしていたはずです。
そんなさとくんが壊れたのは、ある出来事を見てからでした。
自分の価値観が壊され、そう考えるしかない状況下に置かれてしまいました。そう考えないと自分を保てなかったのかもしれません。

ではさとくんを追い詰めた一つの要因である、先輩たちはどうだったのでしょうか。
映画ではさとくんを追い詰めたり、障がい者に虐待をしたりという姿しか描かれていないから悪に見えます。
ですが、さとくん同様自分を守るためにそうなった背景もあるのではないかと私は思いました。
さとくんも先輩も、すべて悪だけの行動かと言われるとそうでもない。言葉の端々に優しさや思いを感じました。

園長も然り「国の方針に沿って行なっている」と怒った描写。これもあの場面だけ見れば完全に悪でした。
ですが、重度障がい者の暮らす場は現実として少ない現状で園長は暮らす場を守ろうとしていたのかもしれません。
そうだとしたら本当に悪なのでしょうか?
もちろん、ただの隠蔽の可能性もあるけれど。
こう考えてしまったのは、両者の意見を知った水俣展の影響でしょうか。

とにかく答えの出ない投げかけが次々に起こる映画です。

短時間で影響力を見せたのは高畑淳子さんが演じる母の気持ちでした。
色々なことを言う職員がいたらしいけれど預ける先がない、という言葉。
親は高齢化して見れなくなっていく現実。
施設は昔より確かに増えました。反面、医療的ケアがある人が夜間帯もいられる場所はまだまだ少ないのです。
親の葛藤と最後の叫び、心が苦しくなりました。


さとくんの正義とは?


さとくんは客観的な判断のように、心があるか?喋れるか?を判断基準にしていましたが、受け取り方は結局さとくん基準。
日常の福祉現場でも「あの人はこう思ってるに違いない!」という人がいます。
果たしてそうなのか?を改めて考えさせられる描写でした。

福祉職である私がこういうのは誤解が生まれるかもしれませんが、相手の本当の気持ちは正直分かりません。言葉があっても誤解はあるくらいだもの。

こちら側でそうに決まっている、こう考えているはずだ、と決めることはできません。
分からないからこそ、福祉職はさまざまな視野を持った上で、こうかな?あれかな?もしかしたらこっちかな?と試していくのです。


映画では結果さとくんが行動を起こしていますが、夫婦や他の職員もその狭間で心が揺れ動いている気持ちが描かれているように感じました(実際に行動するかは別として)。
みんなギリギリを彷徨っていて、決してさとくんが特別ではない気がします。



「月」とは

これは人間とは?幸せとは?が問われた作品であるように思いました。
明るい利用者の様子と職員の心を映す暗闇、最後の生と死の対比がよく表れていたように感じました。
入り口の鉄格子だったり、個室に閉じ込めたり、辺鄙なところに施設があったり
これらは悲しいかな、絶対にない!とは言えない過去の事実です。
と、同時に現実との隔たりだったり心のドアの描写だとも思いました。
施設のシーンに夜が多かったのも心の中を映すためかな。

すべてを照らす太陽が私たち健常者と呼ばれる存在だとしたら
題名になった月、は障がい児者たちを指すのでしょうか。
隠れた存在、でも輝かしくもある存在。

そうも思った反面、月が剥がれた時の描写を考えると、さとくんも月であるという意味なのか。
ささやかに仄かに照らす光。みんな隠れた何かを持って生きているということなのかもしれません。


答えはでません。答えがどこにあるのかも私には分かりません。


これが正解とか間違っているとかではなく
なぜこの映画は作られたのか。
なぜ問題作、として予告する必要があるのですか?
繰り返さないためには皆がどう考えると良いのでしょうか?


同業種の人たちにもこの映画をおすすめしていて、数人から聞いた感想もさまざまでした。
自分ごとのように捉えた人、犯人は特別でどこか自分とは違う存在だと剥離して考えた人。

やまゆり事件をモチーフにしているから、身近に障がい児者がいる人たちは尚更、センセーショナルな出来事に心を奪われるかもしれません。
けれどそうではないと思います。伝えたかったのは事件の悲惨さではなく、もっとずっと繊細で、ぱっと見は分からないおぼろげなものを表した映画である気がしました。
おぼろげなもの、それは「月」です。
私たちもまた月なのでしょうか。


そう考えたら私は暗い気持ちになりませんでした。
心がえぐられた場面はありましたが、この映画が皆の討論のきっかけになり、自分とは?幸せとは?を考えてもらえるかと思うとありがとうという感謝の気持ちが大きくなりました。

答えが出ることはないでしょう。
それでいいと思います。
一番恐れるのは無知であることです。
知らないふりをすることなのです。

1人でも多く観てもらい、みなで討論することがこの映画のすべてだと思いました。

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