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大人、羊、自分

今日、もらった案。

今日、むーさん(友達)からもらった案として、「私の脳みそをそのまま書き連ねたブログ」という案と、「それを溜めていって、共通のトピックでくくって書く記事」という案がある。
両方やってみたくなって、今日から、その日自分が考えたことのメモを始める。
なるべくハッシュタグで共通項はあとから見やすいように気をつけようと思っている。
その日とった写真ものせれたら、なおいい。

大人

最近、大人についてよく考えている。自分が「あ、大人になっている」と感じるシーンが増えてきたからだと思う。どうしたって私はもう19歳付近の子たちより若くない。若さとは…と考えたらすぐに「知らないこと」とでてきちゃうくらいだ。でも、まだ、若者でもある。でも、もうすぐ若さというカードが使えなくなる。使えなくなるわけではないけれど、どうしても使えない場面や使うと滑稽な場面が出てくる。その代わりに使えるのが、大人っぽい感じであったり、知っているということであるのかもしれない。ああ、そうか、だから大人は知らないことが多いところに行きたがらないのか。知らないってことは、大人として振る舞えないって事かもしれない。でも、知らないものが多い所でどう振る舞うかを知っている人が大人?とも言えるとかも言える。
それにしても、最近は、いわゆる”大人”がよく言うような言葉に勝手に腹落ちしている。「人間には理性がある」とか言われても、「はあ…(だから?)」くらいにしか思っていなかった中高生の私は、今現在姉と衝突しそうになったときに理性を用いて、必要以上の衝突を避けた。感情的にぶつかるのが意味ないなと思ったときに、一歩引いてみて、これ以上感情をぶつけるよりかは、今後どうしたら気持ち良く居られるかを考えたのだ。大人だ。すこぶる大人だ。しかも、理性だ。これは理性だ。理性を用いて、行動したのだ。
そうか…大人ってこんな気持ちだったのか。カントもデカルトも大変だったんだろうな。
まあ、大人に関してはそんな感じ。

羊の毛が楽しい。洗ったり、梳いたり、染めたり、紡いだり。
どれも自分の手が生み出して、それが毛糸になって、その毛糸が私を温めるものになる。私の作ったものになる。
これ以上の幸せってあるだろうか?
自分の手で、生きていくために役に立つものが生み出せる。
最高に嬉しい。羊に感謝。
それを子どもたちと共にするのも楽しい。
一緒に手を動かしながら、羊に思いを馳せる。
くさいね、うんこだね、なんでこんなにうんこだらけなんだろうね。
たくさんの感想が出てくる。
普段、これについてどう思う?なんて聞いても、うーーんって困るのが子どもだけれど、なにかを一緒にしている時は、するする出てくる。素直な感想。そうそう、そういう言葉が聞きたいのよ〜という感じ。
あとは、そのための準備についても考える。
準備ってどこまでが準備なのか。必要最低限を準備していきたいけれど、いつも不完全な気がして、悲しくなる。焦る。終わらないと思う。その前の用事を楽しめない。悲しい。楽しんだとて、その後すごく焦る。
もっといろんな緊張を手放して、少しずつ、気楽にその場にいる。をしたい。
ただそれだけ。

自分

自分、なんて。広すぎる。知っている。
ただ、自分の生きづらさについて、また考えていた。
生きづらい。
みんな生きづらいのは、知っている。
でも。でも!私は普通に生きたいだけなのに。とも思う。
普通に笑って、働いて、ぐちって、駄弁って、歌って、そして、死んで。
それだけ。それだけなのに、生きづらい。
五体満足なのに、生きづらい。
「働く」を選んじゃう。
「食べる」を考えちゃう。
「買う、使う、消費する」を検討しちゃう。
世界がびっくりするくらいつながっている。
「世界的にみて、いい」を考えたくなる。世界なんて自分が見えているものかもしれないのに。
人権と環境と。

おまけ−最近始めた取捨選択

誰にあって、だれと話すか。どこにいくか。なにをするか。
選んだあとは全て自分のためになるように全力を尽くすけれども、それでも時間は有限だから、今の自分に必要と思うものをなるべく取るようにしていきたい。というか、していくしかない。じゃないと、時間がない。進まない。進めない?わからない。
でも、今は取捨選択をする。自分のために。いちいち凹んでたんじゃ身が持たないから。今日も、今日とて、全てに感謝しながら、取捨選択。
みんな、ありがとうございます。
ただ、私はこちらに行きます。
大好きです。
って感じ。


読んでくださった方へ、何を思って読んでいたのか、読んでくだすったのか、コメントくをだされば、家の前にやまびこをしに走るくらい、喜びます。