カントの「純粋理性批判」の入り口

純粋理性批判を読まないとどうも居心地が悪くなってきた。フッサールの言っていることをどれだけ理解しているかハイデッガーに進んでもいいのか、カントを読んでからでないと無意味ではないかと耳元で囁かれている。

 サイードのオリエンタリズムにちょっと流れて今日も読んでいたけど、時間をカントにも振り分けようと思って、読み始めた。
 私の持っている純粋理性批判は岩波文庫の篠田秀雄先生の訳である。この訳はTranscendを超越論とせずに先験的としていることである。
それで図書館で中山元先生の文庫を借りてきてちょっと比較をしようと思った。
 そうすると訳の違いというよりわからないところを少し考えようという気持ちになるようである。
 長年気になっていたことを見つけた。
 まず超越する、という言葉の意味。

 カントは超越について、経験を「超越」する認識、という文脈で理解しているようである。緒言のIIIの冒頭
 次に、カントは純粋理性にとって避けることのできない課題として

 神、自由、(霊魂の)不死

をあげる。

これはなるほど、と思う。

そして、形而上学は

上記の課題の解決を目的とするものが形而上学

であるとしている。

なるほど、昔4コマギャグ漫画で形而上学を「うああ」と読ませるものがあったのを思い出す。

岩波版ではこの本の中巻に神の存在証明がある。トマス・アクィナス以来の第論点かもしれない。
自由論は収められているのか、目次をネットで見てもよくわからなかった。今更気がついたが、私は上巻しか持っていないようである。他の本に埋もれている。

これで読み進めるモチベーションが高まったのでいよいよカントを読めるかも・・・しれません。でも数ヶ月から数年がかりになるかもしれないですね。


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