魂 身体二元論の不思議

私は理系で、子供の頃から昆虫の図鑑大好きなタイプでした。

中学生の頃に天文学者カールセーガンのコスモスに触れ出会う本で自習したり大学では化学を専攻しました。

私にとっては霊魂は身体、脳が作り出すもので、肉体、脳が止まったら終わり。

この数年いろいろ勉強し直そうと思って、プラトンとか読むと、不思議なことに霊魂が肉体に入るという考え方するんですね!
先日のアベラールもその路線でした。

びっくりです。あり得んでしょ。
と思うけど、過去ににはそちらの方が優勢。

天にいる霊魂が肉体に入る。

そういえばリボンの騎士のはじめもそんな感じだった。

そんな中で自分と関わりのある人が亡くなっていくと、亡くなったことを頭で理解しているのに、あの人は今何してるんだろう?とかふっと思っていたことも何度か。

ただのボケなのか、そういう感覚が宗教なのか。宗教による刷り込みなのか。魂というものが残ると思ってるから私もそう思っているということか。

では、魂がいると仮定してみよう。彼らの魂の扱いは宗教ごとに異なる。どれが正しいのか。もしフィードバックがあったらびっくりである。その確かな証拠はない。ないからと言って無いとは言えないというのか、現時点で無いから無いのだろうというのか、果てしない神学論争をたどる気はしないが、私はやっぱり脳が死んだら霊魂終わりと考えたい。

いやここで死んだという認識が確かかどうかとかいうことは可能だが、引っ張るだけでは、と思う。ディラック 流に言えばわかっていることをわからなく言っている、というような。

だからと言ってプラトンやソクラテスに輝きがなくなるわけではなく、かと言って、よく生きる、と言ってもナチスやイスラエルを見れば彼らにとって、よく生きるということは対立する他人、他民族を殺戮・殲滅することなのは明白なのではないか。旧日本軍もそうでしたね。

と逡巡しているととめどなく終わらないのでしばらくこの手のテーマは続きます。

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