フランクフルト学派は現在のイスラエル・パレスチナに対応できるのか?

 以前よりフランクフルト学派と言われるアドルノやハーバマスには興味を抱いてきた。
 東京経済大学の早尾先生がnoteにてハーバーマスが言及される「ハミッド・ダバシ「ガザのおかげでヨーロッパ哲学の倫理的破綻が露呈した」」の試訳が公開されている(公開停止になったようです。代わりに早尾先生のnoteのページを貼り付けておきました。):

読んでいるとグッとくる文章がある。冒頭4パラグラフ目:
「ヨーロッパの道徳的想像力の圏外にいる私たちは、彼らの哲学的普遍の中には存在しない。」

第2節である「ヨーロッパ部族の聴衆たち」の3パラグラフ目:
「パレスチナ人の命を無視するハーバーマスの姿勢は、彼のシオニズムに完全に一貫していると考える。非ヨーロッパ人は完全には人間ではない、あるいはイスラエル国防大臣ヨアヴ・ガラントが公言しているように「人間の顔をした動物」である、という世界観と完全に一致しているのだ。」

第3節「道徳的退廃」の1パルグラフ目にある:
「私は過去に何度も、ヨーロッパの哲学的思考とその最も著名な代表者の根底に現在ある不治の人種差別を指摘」し、結論としては「世界は今、そのような誤った普遍性の意識から脱却しつつ」あり、「彼らの長期にわたる歴史的なヒロイズムと犠牲によって、「西欧文明」の基盤にある剥き出しの野蛮さがついに解体されたのだ。」と結論される。
 ハーバーマスはこき下ろされ、代わりに柄谷行人などが称揚されている。

ハミッド・ダハシ氏の著作は:

 途中までの論旨はよくわかるのだが、後半の楽観具合がよく理解できない。そんなに、簡単に「普遍性の意識から脱却」し、「西欧の野蛮さ」は「解体」されるといえるのだろうか?結局ところ、欧米に対抗できる経済もしくは軍事力、あるいは両方を手に入ればければ価値観はひっくり返らないということではないのだろうか。西欧の「野蛮さ」が解体されたとはどのような状態を意味するのか?氏の著作を読めばどれほどのことで言っているのかわかるのかもしれない。
 これまでの哲学は抑圧する側の勝利の哲学の側面を持つと言えるかもしれない。自由について議論すると言ったって黒人などの差別的な境遇に置かれたのではない自由な人々の議論なのである。以前の繰り返しで恐縮ださが、コーネル・ウェストやアンジェラ・デイヴィスの本を読むとそれは思い知らされることである。
 それは神学も同じである。なぜか抑圧する白人と抑圧される黒人が同じ宗教を信じている。抑圧される側はなぜ信じられるのか私にはよくわからなく。マルコムXのようにイスラムに改宗することもわかる気がする。ジェイムズ・コーンが聖書を解放の書と位置付けた読みを出している。しかしそれでは白人をかつてのエジプト(ファラオ)に位置付けるものに転化されるだけのことになりはしないだろうか。隣人を愛する神は白人には自由を黒人には「試練」を与えた。そこにどのような正当性があるのだろうか?
 それはともかく早尾先生の本のポートフォリオは参考になりそうである。


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