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アブドゥルラザク・グルナ 「楽園」を読了

「この人生を生きていると実感できるのは、なんにもなくて空っぽだから、なにも与えられていないから、ただそれだけのこと」pp254

 グルナの楽園をようやく読了した。書誌情報は

2021年ノーベル文学賞受賞! 初期代表作

舞台は20世紀初頭、現在のタンザニアの架空の町。主人公ユスフの12歳から18歳までの成長の過程が辿られ、東アフリカ沿岸地域の歴史的な大転換期が、少年の目から語られる。
宿を経営するユスフの父親は借金に行き詰まり、裕福な商人アズィズに借金の形に息子を差し出す。ユスフは使用人(奴隷)として働き、内陸への隊商で莫大な富を得ているアズィズの旅に加わる。
互いに争うアラブ人、インド人、アフリカ人、ヨーロッパ人のいくつもの勢力を目撃し、さまざまな経験を積んだユスフは次第に自らの隷属状態について疑問を抱きはじめる……。
作家は1948年ザンジバル(現在のタンザニア)生まれ。革命の混乱を受けて67年にイギリスに渡る。ケント大学で博士号を取得。ポストコロニアル文学を教えながら執筆活動を続け、現在、同大学名誉教授。これまでに長篇10作を発表し、1994年に刊行した4作目となる本書『楽園』はブッカー賞およびウィットブレッド賞の最終候補となる。2021年にノーベル文学賞を受賞する。
巻末に「ノーベル文学賞受賞記念講演」を収録。

 楽園を追放されるかのように、ユスフが借金の方に売られていく。奴隷状態ではあるがその拘束そのものの酷さは表に出てこない。同じ頃、日本でも奉公制度や女子だったら吉原に売られるみたいなことをしていたので、同じようなものか、と思う。
 内陸への旅の描写で我々はアフリカ大陸にスワヒリ語、アラブ語が入り混じっていたり、イスラムの信仰の強いもの.土着の人々などの文化、人種の混じり合いになっていて驚く、そこにヨーロッパ人が支配を確立しすでに調停まで行っている。
 現地の民の信仰への考え方などの特徴が描かれ、大変興味深い。このような分断された社会では民主主義というのは機能するのだろうか?多数派が決めることが全てであろう。
 そのような状況に置かれても主人公はどんどん美しく頼もしくなり、旅が終わってからは現状を正しいことではないと思い始める。拘束状態や自分や知人の親の状況を見てここから抜け出ることを考える成長譚である。物語の下敷きは旧約聖書のヨセフ記でコーランにも引き継がれているそうだ。
 ドイツの植民地統治がかなり進んでいる。すでに鉄道がひかれていてびっくりである。植民地開発についてはwikiを参照(ただし、合っているかどうか不明である)


 ドイツの植民地統治について強権的な様子や布教とセットであることが描かれ、その地の遊牧民の状況と対比している。

「山の背後には土にまみれた戦さ付きの民が暮らし、牛を飼ってその血を飲んでいるそうだ。・・・指導者がいかに偉大かは、近隣の民を襲って奪う動物と連れ去る女性の数で決まる。・・・あるとき、ルター派教会の牧師が農民に鉄の鋤の使い方や車輪の作り方を教えた。・・・山の民の魂を救済するために神から遣わされたと主張し、労働とは神の聖なる命令であり、懸命に働けば罪を贖えると告げた。教会は礼拝の時間外には学校にもなり、・・・複数の妻を迎えることは禁止され、・・讃美歌を教わり、・・・」PP71

「ヨーロッパ人は真っ先に留置場を作り、次に教会を建て、それから商売を監視して税金を課すために市場の小屋の設置に取り掛かった。」pp82

楽園は旧約聖書とコーランに共通の楽園のイメージだろうか。4つの川があると。(p90〜)カラシンガというシク教徒がなぜかユスフとイスラムの仲間として狂言回しをする。
シク教徒とは

私はシーア派とごっちゃになっていて今見返して致命的な読み間違いをしているのに気がついた。前半と後半pp216でカラシンガがコーラン(クルアーン)を英語に翻訳する話が出てくるので勘違いしていた。
 彼らが議論していることで奴隷だとか現地の統治の状況がわかるように組み立てられている。
ヨーロッパ人では他にベルギー人も出てくるがもちろんいいようには描かれない。
「奴らはねたみ深いろくでなしの貧乏人で」pp103

 再びドイツ人について「俺たちの場合は、罪人が悔い改めていれば、罰するのは難しいと考える。・・・ドイツ人ときたら正反対だ。罰が重ければ重いほど、断固として容赦ない。それにドイツ人の罰は常に厳しい・・・・」
 戻ってきてから現地の楽園も描かれるのだがそれはネタバレになるので書かずにおく。

 楽園(自由)を見つける旅や日々の活動などで、土着の世界はヨーロッパ人によって蹂躙され仲違いするようにされ、崩壊し、今や楽園はどこにもないことが思い知らされる。ユスフの引受人のアズィズおじさんも賢者になりきれずこの先の苦労が想像できる。楽園のような庭を作っているものも幸せであるようには見えなかった。それでも時代の変化を感じたユスフはその変化に乗ろうと最後にある決断をして、え?というおしまいである。もちろん著者の経歴を見れば納得もできるかもしれない。

 このようなヨーロッパの植民地主義の状況を読むとちょうど今読んでいるフッサールの「ヨーロッパ諸学の機器と超越論的現象学」が同時代であることを考えると、この植民地主義の上がりで潤ったドイツの中でのいわばかすみのような議論であるように見えてくる。読み書きを習ったユスフがドイツで刊行された本としてフッサールの初期作品をその頃読んだらどのように感じるだろうか?そもそもイスラム教徒の人々はキリスト教に起源を持つ哲学を読んでどう考えるのだろうか?レヴィ=ストロースが哲学の影響力は国力によって決まると対談かどこかで述べていた(出典失念 調べておきます。多分エリボンとの対談)。

 ポストコロニアルとして大変重量感のある本であり、日本が欧米の進出で植民地にされていたら、ということも考えるし、日本のとった植民地主義も韓国や中後に対して同じようなことをしていたわけであろうからこのような文学に光があたれば我々も無傷ではいられない。

次はJM クッツェー読むつもり。「マイケル・K」がいいかな。


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