中学生の頃プラモの戦車を作ってた→現実の砲撃戦

中学生一年の頃、ガンダムが流行る前にプラモの戦車、主に第二次世界大戦のドイツものを作っていた。タイガー戦車とか。


なので戦車の中身の構造とか人のいる空間とかなんとなくわかる。カットモデルとかリアルな内部空間も写真でよく見たので。
装甲の厚みは横が分厚くて上下は比較的薄いとか、砲弾どこにしまっているとか。

中2くらいで戦争の現実やナチスのやったことに触れて、これはまずいでしょ、とプラモ作りは徐々に卒業した。
 ガンダムも作ったが、虚構の世界と感じられたせいかのめり込めなくて二つ、3つ小さいのを作ったくらい。

 あと、モデルガン。これは護衛とかサバイバルという言い訳が便利で少しはまった。でも結局のところ人を殺す道具じゃんということで中2後半には完全に終わってた(ような気がする)

 それで、最近のウクライナでの戦車の闘い。ドローンによる至近距離の撮影。これをみると、あの戦車の中で弾を撃ち合う様子を見ると、あの棺桶の中で弾が当たったら、運良く貫通しなくてもすごい衝撃をうけながら、照準器を相手に合わせ撃ちまくってこちらが勝たない限り自分が殺される。
 その想像が映像としてリアルに見れる。見たくないのに。中東戦争とかでは遠くからの戦車を見ていればよかった。今はドローンのせいで本当に至近距離での撮影。自分がその中にいたらやり返せるだろうか?やらなきゃやられる。そこに放り出されたら人権だとか、戦争で人を殺していいのか、なんて悩んでいられない。生きていたかったら殺すしかない。自分がベストを尽くさないとメンバーごと死ぬ。
 映像へのリンクはやめておきます。いくらでもニュースであるので。

 弾が当たったことを想像するだけでちびりそうである。そういうことを考えてしまう。
 戦車に乗せてもらえるかどうかともかく、それを我々のご先祖さまの旧日本軍はやってきたことを考えると、ほんとに恐ろしい。戦場から帰ってきた人が無口で戦争について話さない人が多いというのはわかる気がする。
 出典忘れたが(あしたの影の中に)ホイジンガが戦場の兵士についてただ命令に従うだけである、とか書いていた。
 そんな状況で「生きる」生き方を考えることはどれだけ意味があるのだろうか?生きて帰ったら考えられるのだろうか?戦場とはいえ人を殺したらそのようなことを考えられるのだろうか?「よく生きる」ということは敵を殺して自分が生き残ること。自分がやられないように先に敵を殺すこと。敵の萌芽を感じたら直ちに殲滅することを考えること。
 そういうことは戦争に行かなければ考えないだろうか?お隣の国のように徴兵制が敷かれたらそういうこと叩き込まれて考え方が変わってしまうのではないだろうか。
 だからこそナショナリズムと哲学が論じられるのだろうか?
 ソクラテスも戦争に行っており武勲があるらしいがとくにPTSDぽい発言はないようである。銃と刀では違うだろうか?
 そんな堂々巡りすることを戦場の映像を見て考えてしまい消耗してしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?