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「論語」と「自己への配慮」8 和辻哲郎の「孔子」

 「論語」は自己および他者を育てる要素もあり「真理の勇気」の概念も持っているが、復古政策と親近性が高く、賛美するには批判的要素を確認する必要がある。論語を元にした儒教は武士の支配体制の道具であった。
 下剋上をよしとしてきた武士は自らが政権を握った時、自分たちに下剋上されると困るので、社会を保守化・固定化する必要に迫られ儒教を奨励し学者を抱えた。ところがそのような学問を深める中から賀茂真淵は儒教が盛んだったはずの中国で国が乱れていたので儒教は空理空論と手厳しい。
 さらに賀茂真淵や本居宣長らがさらなる日本の起源を日本書紀や万葉集などを読み考えた。そうしたら天皇が重要ということになり国学へ傾斜。王政復古や尊王攘夷などの概念が出てきた。将軍・幕府は日本の統治にいらないんじゃない?そのような思想の流れが本として流通し読まれることで武士の身分保証をひっくり返したわけなので興味深い。
 渋沢栄一の「論語と算盤」の「人格と修養」にも儒教が衰退したと嘆いている一節がある。
 以上、和辻哲郎の「日本倫理思想史」3、4巻からの私のまとめである。もちろん和辻哲郎はリベラル寄りの見方なので儒教をよしとする人から見たら違って見えると考えられる。そのような本があれば読んでみたい。
 というわけで、儒教を元にした権力闘争を知ると私はとても手放しで「論語」の通りにしようとなどと思えないしいうつもりもない。
  さらに和辻哲郎の本を調べていたら「孔子」という本があり

ヨーロッパの古典フィロロギーの方法にもとづいて,孔子とその弟子達の言行録である『論語』を読みとき,その成立過程を明快に分析した小さな名著.全篇を一貫する広い視野,随所にあらわれる知性の天才的なひらめき,達意の美しい文章は,あたかも第一級の推理小説を読む如き高度の喜びと楽しみを与えてくれる. (解説 大室幹雄)

とあり、私がここで展開していたこととかぶったら正当性を主張できるし、何より意外とそのような本がない。なぜならプロにとっては恐れ多いことかもしれないし、アマチュアにとっては実名でやっている人には大変だろうし、私のような匿名の無責任の立場がいいのかもしれない。論文としてまとめれば反論が出たりしてフィードバックができるがこのドキュメントはせいぜい50回アクセスされるくらいで気が楽ではある。
 さて、和辻哲郎は論語の本文校訂や本文研究についてや解釈の難しさについてもちゃんと述べているが、その学問範囲は中国の学者の意見は入っておらず日本の中だけのようである。そこまで気にするなら中国での百家争鳴状態の確認などにも興味が湧いてくる。さて、学而編について和辻哲郎は下記のように書いている(青空文庫より)


(一) 子曰く、学びて時に習う、亦また説よろこ(悦)ばしからずや。有朋とも(友朋)遠方より来たる、亦楽しからずや。人(己れを)知らざるも慍うらみず、亦君子ならずや。
これは明らかに孔子学徒の学究生活のモットーである。孔子がこの三句をある時誰かに語ったというのではない。孔子の語の中から、学園生活のモットーたるべきものを選んで、それをここに並べたのである。すなわち第一は学問の喜び、第二は学問において結合する友愛的共同態の喜び、第三はこの共同態において得られる成果が自己の人格や生を高めるという自己目的的なものであって、名利には存しない、という学問生活の目標を掲げている。

名利には存しないというくだりが良い。私も注意を惹かれたしソクラテスが自己の魂を大事にしたことや後のストア派との食いつきがいいから。
 次は長くなるが一気に引用:

(三) 言ことを巧よくし色を令よくする(人)は、鮮すくなし、仁あること。
という孔子の語が次いで記されていることも理解しやすい。この語は、陽貨ようか篇にも現われている。おそらく孔子の有名な語であったのであろう。が、ここではそれが学ぶべき道の第二段として掲げられるのである。孝悌は道(すなわち仁)の本であるが、その孝悌を実現するに当たって、単に外形的に言葉や表情でそれを現わしたのではだめである。父母兄弟に対し衷心ちゅうしんからの愛がなければ孝悌ではない。相手を喜ばせる言葉を使い、相手を喜ばせる表情をする人は、かえって誠実な愛において乏しいのである。重大なのは誠の愛であって外形ではない。そこで道(すなわち仁)の実現を外形的でなく内的な問題とする心得が必要になる。それは、
(四) 曾子そうし曰く、吾われ日に三たび吾が身を省かえりみる、人のために謀はかりて忠ならざるか、朋友と交わりて信あらざるか、習わざるを伝うるかと。
である。曾子もまた『論語』に出場することの少ない弟子で、学而篇のほかには里仁篇に一章、泰伯たいはく篇に五章、憲問けんもん篇に一章を見るのみであるが、泰伯篇の分に死に臨んだ際の言葉が二章までも記されている所を見ると、孔子学派においては有力な学者であったに相違ない。『孝経こうきょう』が曾子と孔子との問答として作られていることは、曾子の学者としての影響を語るものであろう。右に引いた句においても、「習わざるを伝うるか」という反省は教師としてのものである。が、ここにこの章が置かれたのは内省という問題のためであろう。人との交渉における忠、朋友との交わりにおける信――習わざるを伝えないのも弟子に対する忠であり信であるが――それらは巧言や令色によって実現せられるものではなく、ただ良心の審判によってのみ判定さるべき誠意の問題なのである。そのことをこの曾子の語は明白に示している。さてこのように道の実現の意義を明らかにした後に、いよいよ人倫の道の大綱が掲げられるのである。
(五) 子曰く、千乗の国を導おさ(治)むるには、事を敬つつしんで信まことあり、用を節して人を愛し、民を使うに時をもってせよ。
(六) 子曰く、弟子入りては則ち孝、出でては則ち弟(悌)、謹つつしみて信まことあり、汎く衆を愛して仁に親しみ、行ない余力あれば則ち以て文を学べ。
(七) 子夏(しか)曰く、賢(さかしき)を賢とうと(尊)び、色を易あなど(軽易)り、父母に事つかえて能よく其の力を竭つくし、君に事つかえて能く其の身を致ささげ、朋友と交わり言ものいいて信まことあらば、未だ学ばずというと雖いえども、吾は必ず之これを学びたりと謂いわん。
この人倫の道が家族生活における孝のみでなく治国を第一に掲げていることは特に注目されねばならぬ。孔子学派における道の実現は前述のごとくあくまでも衷心の誠意をもってすべきものであるが、しかしそれだからと言って人倫の道を単に主観的な道徳意識の問題と見るのではない。人倫の大いなるものは治国である、国としての人倫的組織の実現である。そうしてそれはただまじめで「信まこと」があること、人を愛し衆を愛することによってのみ実現されるのである。もちろんこのような人倫的組織の実現には、その細部として孝や悌が含まれねばならぬ。家を捨てることによって道を実現するというのは孔子学派の道ではない。しかし孝を何よりも重大視するというのもまたこの初期の孔子学派の思想ではなかったのである。(五)と(六)とに分ける孔子の語は、明らかに信まことと愛とを人倫の道の中枢とするのであって単に家族道徳を説くのではない。


意外と和辻哲郎は政治的な文書と特定を急がずに家族のことなどを話題にする。家を捨てるというのは仏教の出家による解脱を対比としてあげているのだろうか。学而編8である

人倫の大綱を説くことによって学ぶべき道が示された。そこで次にはこの道を学ぶ学徒の心がけが示される。
(八) 子曰く、君子重(おも)からざれば則ち威あらず、学べば則ち固(かた)くなならず。忠信(の人)に主(した)しみ、己れに如しかざる者(ひと)を友とすることなかれ、過(あやま)てば則ち改むるに憚(はばか)ることなかれ。
 この心がけはもちろん学徒に限ったことではなかろう。が、もし一般の世間において、「己れに如かざる者を友とすること」がなければ、友人関係はきわめてまれにしか成り立ち得ぬであろう。我はたとい己れに優まさる者を友としようとしても、その優る者は己れに如かない我を友とすることはできないからである。従って人はただ己れに等しいもののみを友とし得る。その場合に人を導きまた導かれるということはあり得ない。しかるに学徒は導かれる立場にある。常に己れより高い者優すぐれた者に接しなくては、有効に導かれることはできない。だからこの心がけは学徒の心がけとして最もふさわしいのである。過あやまてばすなわち改むるという心がけも、学問における進歩のために必須である。そういうしなやかな、弾力ある心構えを養成することによって、人は頑固になるという危険を防ぐことができる。軽々しく意見を変えないというような態度も君子としては必要であるが、頑固に陥っては取り柄がなくなるのである。

和辻哲郎 孔子

この文はわかりにくいので青空文庫の訳に頼ろう

先師がいわれた。――
「道に志す人は、常に言語動作を慎重にしなければならない。でないと、外見が軽っぽく見えるだけでなく、学ぶこともしっかり身につかない。むろん、忠実と信義とを第一義として一切の言動を貫くべきだ。安易に自分より知徳の劣った人と交っていい気になるのは禁物である。人間だから過失はあるだろうが、大事なのは、その過失を即座に勇敢に改めることだ。」

青空文庫 現代語訳論語 下村湖人訳 

 和辻哲郎は前半の「子曰く、君子重(おも)からざれば則ち威あらず、学べば則ち固(かた)くなならず。」は後回しにしている。下村湖人の解釈と逆で後半の友との関係からはじめそれから前半の己の態度へと戻っていく。解釈が難しいことがよくわかる。友との関係についてすぐ頭に浮かぶのはプルタルコスであるが、残念ながら私はプルタルコスを読んでいない。
 さて、和辻哲郎のソクラテス観を確認しておこう:

ソクラテスは彼の時代に流行したソフィストの運動に対抗して、真の哲学的精神を興おこした人である。ギリシア人の古い神々の信仰はすでに自然哲学者やソフィストによって揺るがされており、ソクラテスとしてはむしろこの植民地思想に対してギリシア本土の神託の信仰を復興しようとしたのだとさえ言われているのであるが、しかし彼の死刑の理由は神々の信仰を危うくするということであった。

和辻哲郎

論語の会話が極めて切り詰められたものであること私も指摘したが、和辻哲郎も同じようにソクラテスと比較して述べている:

問答の方は孔子の説き方と密接に結合したものである。それは言葉によって一義的にある思想を表現するのではなく、孔子と弟子との人格的な交渉を背景として生きた対話関係を現わしているのである。従ってそこには弟子たちの人物や性格、その問答の行なわれた境遇などが、ともに把捉はそくせられている。それが言葉の意味の裏打ちとなり、命題に深い含蓄がんちくを与えることになる。が、この対話は、ソクラテスの対話におけるがごとく、問題を理論的に発展させるというやり方ではない。弟子が問い師が答えるということで完結する対話、すなわち一合にして勝負のきまってしまう立ち合いである。従って問答はただ急所だけをねらって行なわれる。孔子の答えはいつも簡潔で、鋭く、また警抜な形にくっきりと刻み出されている。

和辻哲郎

 ソクラテスの側へのコメント

大衆の付和雷同性とか、無責任の位置にある者の空疎な政論とかを、正面の問題として詳細に論ずるとなれば、それだけでも非常に長い議論をしなくてはならぬのである。ソクラテスならばその議論に入り込んで行くであろう。しかるに孔子の語は常にそれらを背景に蔵しまい込んでおく。そうして詳細な考察の結果を暗々裏に前提としつつ、かかる問題に対して処すべき最も簡要な一点をすぱりと取り出して見せるのである。

和辻哲郎

 ソクラテスの問答の特徴を下記のように捉えている

前にあげたようにソクラテスの対話は問題自身が発展するものであって、一問一答により完結するものではない。だから孔子の問答がきわめて簡潔な形を持つに対して、ソクラテスの対話はプラトンの対話篇の示すごとく、戯曲にも比せらるべき大きい文芸的様式となった。

和辻哲郎

 古代中国では魂の問題が重視されていなかったというのは、私は森三樹三郎氏の本で確認していたが、和辻哲郎がまとめていた頃はまだそのような解釈はされていないようである。あるいは森三樹三郎氏の説は今認められているかどうか確認していない。

 孔子の教説が死や魂や神の問題を重要視しないということは、孔子の思想史上の地位を特殊なものたらしめると思う。なぜなら、古い時代においてこれらの問題を無視するような思想家は、原始信仰以来の宗教的伝統に対する決然たる革新家として現われるはずであるが、孔子の言行にはいっこう革新家としての面影が見えず、むしろ孟子が言ったように周の文化を集大成した人として現われているからである。

和辻哲郎

以上、和辻哲郎の「孔子」で論語について興味深いところを眺めた。

西洋哲学はソクラテスから始まると言われる。大きく時代はくだるが、今の私たちがカントの純粋理性批判で神や魂の永遠を議論できるのかどうかという議論を考える、などというテーマがあるとして、今回取り上げた「論語」を手始めに神や魂のあり方についてギリシア哲学と中国の儒教、仏教、日本の神道とこれだけ違っていることが明らかとなった。西洋での考え方をどう結びつけ、自分の何を考えていくのか「自己への配慮」へのようやくのスタートラインの気がする。
 あたかも映画「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」マット・デイモン主演で精神科医から君は頭がいいが、自分は何がしたいんだ、という簡単な問いに答えることができない、というセリフが「自己への配慮」として説得力を持つように。 この映画、実は結構宗教的に凝っている。主人公はアイルランドのカトリック。精神分析を受け精神分析学的な告白を行うが、何になりたいと言われると「羊飼い」と答える。カトリックの「司牧論」を思い出すとこの羊飼いは人々を救済する司祭を指す。精神分析医はそのメタファーに気が付かずスルーする。髭を生やした風貌からユダヤ人ではないかと思う。人々を導くような人になる文書が「司牧論」であり、その技術は技法上の技法と言われている。それゆえ、主人公は彼のトラウマを「告白」を聞くことで和らげてくれた精神科医と同じような役割を果たしたいと考えている。あるいは父の象徴である精神科医と自己を同一視するドゥルーズ風のオイディプスの三角形を考えるべきかもしれない。その場合あの数学者がもう一つの角である。
 下記に司牧論を掲げる。この日本語版はないのでChatGPTによる訳である。

学んだことを生かさず、指導者の役割を果たすべきでない人々。ある者たちは、熱心に霊的な教えを探求しますが、理解しても実践しないで、ただ瞑想だけで学んだことを突然教えます。そして、言葉で説くことと、行動で反することがあります。その結果、牧師が険しい道を進んでいると、羊たちは断崖へと続きます。これにより、預言者によって、主は軽蔑すべき牧者の知識を非難し、「あなた方は清き水を飲みましたが、足で泥をかき混ぜて、私の羊を踏みつけ、あなた方の足で荒らした場所で羊たちは食べました。」と言われました。(エゼキエル書34章18-19節)実際、羊飼いたちは清らかな水を飲み、真理の流れを正しく理解して飲む。しかし、同じ水を足でかき混ぜることは、聖なる瞑想の努力を悪い生き方で腐らせることになる。
https://la.m.wikisource.org/wiki/Regula_pastoralis_(ed._Migne)

司牧論 ラテン語からのChatGPT訳

フーコーは「自己への配慮」はキリスト教の「自己の放棄」によって失われていくと指摘している。そしてキュニコスにより後代に伝えられていくという筋書きをとっていた。しかし、司牧論で統治するものの務めとして自己を節制したり、学び続けたりすることで復活しているのではないのか?それついては別の問題である。

これでこのシリーズ「論語」と「自己への配慮」おしまい。

PS 今は渋沢栄一がお札の関係で脚光を浴びています。彼は女性を持ち上げ、フランスで一夫一妻制をみたにも関わらず公然と妻妾を生涯持ち続けてきた、そのダブルスタンダードの正当化を調べたいと思っています。フランスでも一夫一妻制のフリして愛人いるのが普通というのを見ていたんでしょうけど家でどうどうと妻妾を囲っていたのが凄すぎます。

*このテーマのシリーズこれで一旦終わり。


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